2021/02/05_コンテンツ地獄でシャンプー

project 2021/02/04-1_断章と秘密

スクリーンショット (204)

- 習慣は恐ろしい。習慣は習慣化された一連の行為を、無意識のうちに処理してしまうことを可能にするからだ。習慣に身を任せる間、僕らは何も考える必要はない。というよりも、習慣の中で何かを選択的に考えることなど出来ないだろう。
- 人間の意志が、単一系ではなく、発散系でいつも様々な意欲や関心を並行させながら、多様を統一へと収束させるものだとして、そのようにみなして、というのは、真理として石がそうだと主張するのではなく、意志のある側面をそのようなモデルを仮設して極端にフォーカスして関心を向けるとして、人間の意志は発散系だとして、習慣はそれに真っ向から対立するものだ。習慣は仮構された行動パターンに即して、意志の働くべき発散型のフィールドをほぼ自動的に収束させてしまう。たとえば、目が冷めたら起き上がるという一連の動作を考えてみよう。もしかれが生まれたばかりか、あるいは一切の習慣を記憶領域から喪失してそれに類する状況にあるとして、かれはどれだけの意欲を選択すれば、どれだけ発散した情報を収束させれば、眠りから覚めたあとスムーズに上体を起こすことが出来るだろうか。彼に与えられた身体に対して、彼は我々が普段想像するより遥かに多くの操作の可能性が開かれている。そのことを理解するために、まずは普通の人間がどのような身体操作を選択しているか見てみよう。目が冷めたあと、日常生活を送る普通の習慣を身に着けた人間なら、まぶたを開き、例えば胸の上や顔の近くにある腕を、床を押せるように開放する。その後、腹筋を中心に上体に力を入れ、同時に両腕を適切な箇所に配置して力を入れ、テコの原理で上体をさらに起こす。このとき身体のバランスは常に保たれている。重心がよろめいたりしてベッドに再び戻されるようなことはない。普通の人はこのまま、完全に上体を起こし、さらに膝と上体を引き寄せて、重心を安定させ、片手でそれを下から支えて、お尻を起こし、膝の屈伸運動で両方のバランスを取りながら全身を直立させる。これだけの身体運動を、普段から寝起きしている人間は、特に何も考えずに一連の動作として行うことが出来る。赤ん坊や、それに類する状態の彼には驚くべきことだ。もし身体運動のパターンが、ここで使われた腕の運動、上体に力を入れて腹の方向に曲げる運動、両膝の屈伸運動等々に限られていたとしても、これら個々の運動を発動するタイミングや順序には実質無限の組み合わせが存在する。それでもなお、我々が目覚めてから起き上がるという動作を考えもなしにスムーズに行えるのは、目覚めたら起き上がるという一連の動作に必要な運動のモデルが習慣として刻み込まれているからだ。どうだろう、この事例から読者は想像できるだろうか。これがどれだけ驚異的であるか。そしてどんな習慣も作れるということが、それを更に驚くべき、もっというと恐ろしいものにしているか。
- たしかに、習慣なくしては発散系を単一系にすることは出来ない。情報が収束するモデル(理念)なしに、無限に近い情報を選択するということは成立しないと思われる。それに、人間の意志・選択を意図的に喚起するような不自然な習慣というものも考えられる(魔女の習慣についてはこちらこちら)。ただ、今回はそれらを一旦脇においておこう。話がややこしくなる。自分がやりたいのは、これだけ書いておいてなんだが、証明とか真理探求とかいうたぐいのものではなく、もっとしょうもない話、お遊びだ。
- さて習慣は恐ろしい。習慣は人から思考を奪ってしまう。自覚的な選択抜きに物事が進んでしまう。そして、よく知覚していないものはやはり忘れてしまう。記憶の彼方で完全に消滅したと言うよりは、記憶の実質的な内容、リアルな要素がすっぽり抜けたように思い出せなくなっているだけだと思うのだが、とにかく、人は習慣に頼って行為する間、その間の出来事をよくモニターできない。例えば演奏。楽譜を見て、ドレミファソを読み、鍵盤を叩く。一連の行為には認知・判断・行為が伴う。しかし習慣によって実行されるのは意志、思考を覗いた表面的な行為だけだ。主人の自覚的な選択を抜きにして、楽譜に顔を向け、メロディーを脳髄で走らせて、鍵盤を叩く。このとき自由になった思考はどうなるか。彼が音楽家なら、この余剰リソースは伴奏の雰囲気を掴んだり、指揮を見たり、鍵盤の叩き方に注意を向けたりすることに使われるだろう。自分の場合、これを初めて体験した幼少期の自分の場合、突如与えられた余剰リソースは、事態について勘案し混乱することに使われた。演奏は続いている。腕は、体は音楽を奏でるためのシステムの一分になっている、自分が楽譜を理解するスピードよりも遥かに早く、事態が進行する。このズレに追いつけないことに戦慄した。一体どうやって今まで演奏していたのかわからなくなる。必死に楽譜を追い、思考より早く演奏してしまう身体運動のパターンが正しく演奏しているのかどうか必死にモニターしようとした。しかしダメだ、楽譜をそんなに早く読む能力はない。おそらく、楽譜を読んで演奏するという一連の小さなパターンをいくつも習得することで、Aメロ、Bメロとか適当な単位での演奏を習慣化して、それをつなぎ合わせることで曲全体が演奏できるようになったのだろう。ただ、今までは演奏するメロディの幅は短かったし、演奏がすぐに終われば、さっきの演奏があっていたか間違っていたかはゆっくりモニターすることが出来た。それをする時間が突然なくなったために混乱した、というのが自分が体験したことの実態だろう。しまった、脇道にそれてしまった。この具体例は長すぎる。もっと簡潔に話すはずだった。
- またしても習慣は恐ろしい。これらの文章さえ、自分の思考パターンのいちバリエーションが出力されたに過ぎないのだから。書き初めて書き上げるまでは一つの行為だ。止まらないのも仕方はない。普通の文章というのは、こういうのをあとから編集して読みやすくするのだろうか。
- いやしかし習慣は恐ろしい。もともとはシャンプーの話をするはずだったのだ。シャンプーの話というのは、自分が使っているシャンプーの話とか、ある種のファンがシャンプーを飲む話とかではない。シャンプーをしたときにシャンプーをしたかどうか忘れるという話だ。自分はよくシャンプーをしたあとにシャンプーをしたかどうか忘れてしまう。今さっき頭を流したのが、単なるかけ湯だったのかシャンプーを洗い流す行為だったのかわからない。いま想起しているシャンプーをしたという体験の記憶がいまついさっきのものなのか、昨日のものなのか、わからなくなってしまう。習慣は恐ろしい。習慣の中にある間は、その時の出来事を忘れてしまうからだ。
- さて、俺はシャンプーをしているときに生きているのだろうか死んでいるのだろうか。俺がシャンプーする間、俺は意志を発動しない、思考しない、モニターもしない。あるいは、全てやっているが、その間の記憶は一切が忘却されるということもあるかもしれないし、その時間は全く存在せず、かけ湯のあとに、かけ湯をする前の記憶を持った俺がいるだけなのかもしれない。俺は全く知らないのだ。俺がシャンプーしている間の俺の人生を、俺は全く知らない。知らない人生を俺は生きていると言えるのだろうか。形而上学的に、実在的に俺がどうなっているか以前の問題だ。俺はシャンプーしている俺の人生を知らない。これは決定的だ。
- 俺はシャンプーしている俺の人生を知らない。人は習慣の中にある自分の人生を知らない。人は習慣を自分の人生として生きてはいない。その結果は享受しているかもしれないし、ある程度は自分で習慣をデザインすることすら出来るだろう。しかし、その時間を人間は生きてはいない。人間は時間を代償に、習慣を介することで、意志に対するエネルギーを支払わずに結果だけを獲得する。これは生きているのか。
- 自分は習慣が苦手だ。嫌っているとも言えるかもしれない。もし小説の才能があれば、ここより上をモノローグにして、習慣を人間に与えることで利益を得ている上位存在を仮構して、主人公に一発殴らせる冒険譚を書いたかもしれない。いや、この発想自体がそもそも小説の才能のある人間のものではない。この仮定は無意味だ。
- 自分は習慣が苦手だ。嫌っていると言えってもいい。大事なものがなにか奪われている感じがするのだ。それは多分、習慣そのもののせいではなく、習慣というシステムに漬け込んで、人間を商品にしてしまう悪意のためだとは思うのだけれど。ともかく、自分は習慣が苦手だ。今朝も4時まで起きていた。せっかく最近、起きる時間をいつも9持になるようにコントロールできたのに。TO DOリストでタスクを管理していたのに。結局感じるのは喪失と退屈ばかりでダメだった。それに反抗するように夜ふかしして、意味のないことをした。いや意味はあった。ただ効果が出るのが多少遅かっただけだ。今日もしあのときたまたまが無ければ、自分はいろんなデータを消去して失踪していたような気がする。
- さて喪失と退屈を打破するために習慣を破壊したとして、次に何をすればいいのだろうか。ミクロな話をすれば、一つの習慣モデル(理念)もなければ、発散系から単一の意思決定は絶対に不可能だ。生きることはイデアリストになることに似ている。それは匿名回線で仕入れた密輸入品のイデアを生きるために使うこと、使わずに生きられない体であることを意味する。一種の中毒、あるいは依存症。植物状態+人工呼吸器を依存症と呼ぶのかどうかと問われると、これは問にはならないだろうが、そもそも植物状態なのかどうかは問いになるだろうから、この揶揄するような反抗的な口調も、反論されて引き下がるまでは通用する。
- そうだった空のものの話だ。習慣をなくしてどうするか。本来なら残るのは虚無だけだ、ここには一切の選好がありえない。問題はどこからイデアを密輸入するのかだ。それは世界全部に対しての、実存的な規模のものである必要はない。まったくない。実存的な規模のものの外套を羽織ることは出来るだろうが、必要なのはイデアを使うことだ、何かになることではない。変身ではなく偽装。由来はどうあれ、海賊版であれ、実行力のあるものならば別に何でも良いのだ。それなりの強度と一貫性がなければイデアとして通用しないが、次の偽物を見つけるまでの間、短い間選好のない空っぽの自分の代わりに選好を代行する理念があればいい。自分はそのためにフィクションを嗜むのだ。
- 虚構的人物のふるまい、選好を模倣すること。アニメや映画の声優の声でモノローグが聞こえるようになる経験や、他人の声で他人の発言を再想起する経験は誰でもあるだろう。自分は自覚的に後者を締め出す(諸事情。自己防衛のためとだけ)が、前者は活用する。というよりむしろ、まさにこの前者が、無い選好を仮構する、イデアを密輸入する方法にほかならない。恥ずかしいやつだと思われそうだが、仕方がない。蔑むなら俺に代案をよこせ。
- 自由の刑なんて言うと、ことばのしがらみが多すぎて帰ってニュアンスが伝わらなくなるだろう。選好が存在しない、というのはある意味では言いすぎだ。身体的制約があるから。しかしだからといって、自分が直面している「選好が存在しない」と(自分で)言う事態は、自分の選好に責任を負えないというサルトル的な実存的弱さと同じだとは言えないと思っている。確かに、自分に選好と呼ぶべきものは存在するかもしれないし、それによって生じる責任をおったり折り合いをつけたりすることが上手く出来ないということが、自分の実存的な弱さを指摘するポイントになるのはわかる。しかし、問題をそのようなカタチで簡単に解消して良いようには思われない。一つは自己認識と言うか、自分に対して感じることと少しずれがあるからだ。「選好が存在しない」としか言いようのない態度や状況に、自分は実際に直面する。その経緯や、発生起源、その背後に何が控えていることになってもだ。もう1つは、実存的な弱さという概念は、比較的誰の心にも発見することが出来、コツさえあれば引き出し、あるいは仮構することの出来る概念であって、しかも商品になるということだ。精神治療のカウンセリングにいくらかかるか考えたことはあるだろうか。本来、内省するための適切な知識や技能、穏やかな生活、緩やかな友好関係、相談してくれる友人、心を許せる相手や場所があれば必要なかった金だ。それを支払っている。もっというと、精神病理は貴重なサンプルデータになるはずだ。一つ一つの事例に質的調査をかけるとなると馬鹿にならないが、量的調査という点なら、そこまででもないだろう。多かれ少なかれ報酬をもらうべきは実存的な弱さとやらを持つ彼らのほうだろう。報酬というよりは社会システムからの賠償というニュアンスかもしれないが。もし本当に実存的な弱さとやらがあるとすればの話だが。
- しまった。もともとはもっと別の雑談をするための、まくらとしてシャンプーの話をするはずだったんだが。こっちがメインコンテンツのようになってしまった。
- ところで僕の友達には、これぐらい長いまくらの話を聞いたあとに、ポツポツと断章形式で話すコンテンツ絡みの雑談を、気長に聞いてくれる稀有な友人がいる。彼が普段どういう気持でこれだけ長い話を聞いているのか正直想像もできないが、かなり一方的で自己本位な関わり方だと自分でも思うことがある。だが、彼のおかげで精神が安定することも、思考に整理がつくこともあるし、アイデアを代償にすると思って、深入りせず聞いてもらうことにしている。もし、今更こうした振る舞いを反省するとしても僕に償いとしてできるようなことは何もないからだ。
- そして自分の気まぐれで、君たちにも同じ目にあってもらおうと思う。
- 断章といえば、最近読んだ銭 清弘(obakeweb)の記事で、断章は3点バーストだと言っていた。FPSはやらないから、銃のカスタムのくわしい話はよくわからないが、一発の射撃で(例えば)3方向に縦断が拡散し、それがリズムよくダ、ダ、ダと打ち込まれるイメージは、確かに「断章」という形式をよく表現していると思う。

- よかった。トマトの下りはわからん

- 断章は、編集が読者に許されている。もっというと、文章が通常持つ文の前後関係、前の文とあとの文が当該文に与える意味や意味の方向、文脈が欠落している。だから読者は断章の前後に他のテキスト、自分の人生、コーヒーの香り、雨音、なんでも混ぜ合わせることが出来る。そういう意味で、断章の一つのテキストはいくつもの方向に引き伸ばされ、一つの断章が示す意味の軌道はバースト・拡散する。
- FPSはやらないが、拡散銃のイメージはキャッチーだし良い。わかりやすくて的を得ている。
- ところでFPSをやらない自分が、FPSのイメージだけ持っているのは、多分猫宮ひなたとくろのわちーのおかげだろう。

- このとき猫宮ひなたは滑舌いいし、くろのわちーもあんまうるさくない

- どちらもVtuberだ。それに、どちらもメルクマールだと思う。猫宮ひなたのPUBGはごく初期のVtuber史において、かわいいボイスの女の子(そしてとてもねむそう)が銃器で正確にエイムしバタバタプレイヤーを倒す衝撃映像の走りじゃないだろうか。それに、くろのわちーは最近流行りのVtuberがコラボしてAPEXで攻撃的に絶叫するタイプの配信を、早い段階で定式化したコンビだと思う。もっと先にこういうのあったよ、ってやつはコメントで教えてほしい。
- Vtuberはなんとなく好きだ。多分自分は「声」が好きなんだと思う。Vtuberのというよりは「声」とか音を売りにしているコンテンツが好きなのだ。声優のラジオとか、ガンダムUCのBGMとか、澤野弘之とか、P5とか、「SSSS.GRIDMAN」第1話Aパート(BGMがない)とか、「氷菓」とか「らきすた」とか、津田健次郎とか。
- そういう側面から言うと、Vtuberの放送は声のジャンルに応じてコンテンツタイプを区分できそうな気がする。後退的な絶叫として「ホラーゲーム」。攻撃的な絶叫としてFPS、レース等「対戦ゲーム」。笑い声ならアクシデントや意外性の多い「インディーゲーム」。とか。いやもっと複合的な配信もあるから、こういう試みは無意味かもしれない。でもまあ、声自体が鑑賞における報酬になっていることは、コンテンツの面白さを理解する上で大事だったりするかも。
- Vtuberと声のはなしついでに。まずはこれをみてほしい。

- かぁいい

- 丹下桜さんだ。めっちゃ声が好き。カードキャプターさくらに心臓一個取られてる世代の男の子なんで、しょうがない。それで、あまみゃと並んでる丹下桜に違和感を覚えなかっただろうか。自分はバチバチに違和感があった。違和感というのは、Vtuberと実写が並んでいることの違和感とは違う(それはちょっとみなれている)。この動画の違和感はVtuberと並んだことで明らかになる、丹下桜そのものの違和感だ。いやこれは、無視すべき(場合によっては処すべき)オタクの発言なのだが、丹下桜Vtuber的だ。いや反Vtuber的だ。丹下桜の声を聞いて真っ先に表象するのはなんだろうか。木之本桜?ネロ?カリオストロイリヤ?人それぞれだろうが、だいたい連想するのは二次元の美少女だろう。というより、オタクは丹下桜の生の図像を無視して木之本桜を幻視してしまう(やばい)。ここがVtuberっぽいのだ。というかVtuberと反対になっている。Vtuberは(こっちも危険な議論なので刺されないよう気をつけよう)その声を通して生を、肉体を、生活を感じさせる。Vtuberが水を飲むのはまさにそうした現象の最もわかり易い例だ。
- Vtuberが水を飲むことについてはユリイカに論考がある

- 最初読んだとき衝撃的だった

- ここでその議論をいちいち見返したりはしないが(これはVtuber研究ではない)、すでに先行研究があることを承知の上で、以下はオタクの雑談と思ってほしい。Vtuberは水を飲む。そのことによってVtuberにも水分子の吸収を必要とする一連の生体システムが備わっていることが、それ以上に生身であることが連想される。キモいことを言わせてもらうと、これは衣擦れの音ぐらい(いや実は遥かにそれ以上に)エロい。だって、今まで必死に想像力を行使しなければ簡単にゲシュタルト崩壊を起こしかねない線の集合でしかないかもしれない、とさえ危惧された平面美少女が、自律的な生体システムを持ち、ホメオスタシスを維持するために水を飲むのだ、自己保存しているのだ。僕らの想像力の助けを抜きにして自己保存を始めた美少女には、それまで存在しないか仮象だと思われてきた生身の体が与えられ、浮かび上がる。そこにはもちろん……いや、これ以上はやめておこう。自主規制だ。
- 丹下桜はこうしたVtuberの表象と声の関係を逆転させたものを持っている。Vtuberは声が美少女表象に肉体を与える。丹下桜は声が肉体をオーバーラップする美少女表象を与える。
- この構図は、僕が木之本桜拗らせ野郎だから丹下桜に対して成立した。逆に言えば、聴衆と声優の間でこの関係が築けるのならば、どんな声優とオーディエンスの間にも、こうした現象は起こりうるということだ。というか、僕が言及するよりももっと前に、誰かがなにか言っているだろう(しらんけど)。読者はたまたま、ココでそういう話の一つに出会ったと思えばいい。多分。
- さてさて、断章とは程遠い文脈なしとは到底言えない連想ゲームで話が進んでいるが、大丈夫だろうか。せっかく断章の話をしたのにこれではあまり意味がないかもしれない。せっかくだから、断章を統御しているこの配慮については最後の方に述べておくことにしよう。
- さて、連想ゲームに戻ろう。Vtuberと水から連想するのは、秘密だ。
- 秘密をご存知だろうか。いや、この問いそのものが冗談になりかねないのだが、冗談を続けるなら、秘密は誰でも知っているが、秘密は誰も知らないのだ。
- Vtuberには秘密がある。いや、秘密があるということすら秘密かもしれない。この種の配慮は12月になると存在感を増す真っ赤な帽子の白ひげのおじさんや、同時に複数の場所でパフォーマンスするやたら声の高い夢の国のネズミに言及するときには必ず必要だ。あるいは、実はそんな配慮は必要ないかもしれない。配慮するということによってこの秘密は秘密ではなくなっているからだ。秘密は誰もが知らないが、秘密は誰でも知っている。
- ただ、こういうタイプの秘密ばかりではない。秘密という概念はとても面白い。今回はその一端でも感じられればいいかなと思う。
- 秘密は虚構の故郷だ。虚構は秘密から生まれる。つまりそれが虚構であることには、まず何よりそれが虚構であることが秘密でなければならない。そして、大概にして虚構が立ち上がるところに、自分自身を騙すような(あるいはそれと知らずに自分が騙されるような)秘密が、その根っことして存在している。虚構は秘密から生まれる。
- 勉強モードとか、おやすみモードとか、自分のムードをモードというようになったのはいつからなのだろうか。

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- すごく分厚い本

- 『ハッカーズ』によれば自分たちの気分をモードと言いだしたのMITのテック学生らしい。真偽は調べようがない気がするが、まあそれっぽいし、真偽はここではあまり重要ではない。僕らは自分の感覚や状態をモードと呼ぶ感覚を受け入れている。そして、(それがMITの学生だったかはどうあれ)モードという表現が使われ始めたタイミングが存在し、それ以前の時間で人類は自分自身に対してモードなんていい方は使わなかったのろう、ということが重要だ。つまり、僕らがモードという表現を使うときに、自分の内側に感じている(と思っている)ものは、モードという言葉を使うよりも前には、(少なくとも「それ」として一まとまりとして)感じられなかったものだということだ。要するに何がいいたいかと言うと、僕らが感じるもの(内的感覚以上に対象知覚までもがそうだと私は言いたい衝動に駆られるが論証がない)は名前を与えられる前と後では別の表情を見せ、特に名前を与えられたあとでは「秘密」としての側面を強くするということだ。秘密。誰もが知っていながら誰も知らず、そして触れられないもの。存在することになったけれど、存在していたかどうかと言われると怪しげなもの。秘密。そんな秘密の上にものは成り立っている。そして世界がモノの総体だと言っていいなら、世界も秘密の上に成り立っている。これこそ、冒頭で言及した海賊版イデアではないか。
- そうだ。戻ってきた。たくさんの断章と談笑を交えて、秘密の上の世界から、秘密と直面する世界へ戻ってきた。ただ、僕は読者を地獄のような気分に陥れたいわけではない。秘密がどこにでもあるものなら、海賊版イデアは積極的に使って、積極的に使い捨てるべきだ。対象の感覚、日常性、選好、性格、規範、生活目標、生活習慣、感受性、あらゆるものが僕らの作る嘘、僕らの作る秘密の上で成り立つ。僕らはハッカーたちのように、好きに実的成素を取りまとめて、概念や名前を与えてものにすることが出来る。それは誰もが出来るはずなのに、誰もが忘れていたり、意識的に出来ないことだったりする。実際、新しいまとまりをそれなりの強度で作り出すのは難しい。壊れてしまう習慣があるように、壊れてしまうものがある。秘密が、密輸入イデアがどんなふうに何を構成するかは、構想する人間次第だ。魔女の習慣のような、自然に考えれば弱い習慣でも、必要な意志を配意し続ければそれなりの強度になる。それに、哲学の概念のような抽象度の高い概念や関係を、密輸入して海賊版イデアにすると成功しやすい(と思う)。実際モードも哲学用語で言う「様態」が、遡れば原義だろう。
- さて、説教臭くなってはいけない。そろそろ約束した談笑と配慮、談笑とゆるい編集について喋っておこう。といっても大した内容はない(内容を詰めて書く時は別の記事にしたい)。執筆環境と、雑談を書き出して配置することについてメモ書き程度のことを言っておくだけだ。
- まず、今年からnoteを書きやすいように中途半端でばらばらになりやすいネタ帳をやめて、そのまま編集すればコピペできるようにworkflowyを使っている。きっかけはこの記事だ。

- 特に山内朋樹の話

- workflowyはアカウント連携で、PC、スマホタブレット全てで内容が同期されるから、簡単なメモも、気合の入った書き込みも全部workflowyで対応できる。それに、項目一個一個は好きに移動できるので、セクションの順番をあとから考えることが出来る。そう思った。
- けれど、思索の断片を配位するのは難しい。話の流れを損なわないように語るためには、たとえ繋がりが連想ゲーム程度にゆるくても、つながりが必要だと自分は考えている。逆に、断章が気まずくなったら、バッサリと話題を書き込んで黙らせればいい。この考え方は実用がすぐ効くしわかりやすい(と自分で思う)。そしてこのとき、workflowyはこの手の順序立てにそこまで特別秀でているわけではないということがわかる。
- 話のつながりや流れは、確かに完成する文章の中では、断章の順番として表現されることになる。だが、編集中の断章はそれを表現しない(というより中途半端に表現しつつあることが帰って編集のじゃまになる)。特に断章の多い文章や長い文章の秩序を保つときには、図や、距離・方向などの位置関係を使って手書きするのがいい。

無題

- 字が汚い

- このようにすると、一つ一つの断章が持っている意味の方向性や、断章同士の意味の近さ、引力のようなものがなんとなく見えてくるようになって、それなりの幾何学を示すようになる。今回の図はあまり強度がない、ゆるい円形になっているが、冒頭で(今回は肥大化しすぎたが)最後の秘密イデアの話と断章の話をつなぐ断章を入れているので、図解以上の強度があるはずだ(この図を書き出したあとで、この原稿がベタ書きされた)。強度のある幾何学に沿った断章のまとまりは(特にその引力が互いにもつれ合うように求心的である場合など)必ずと行っていいほど読みごたえがある。偏見だが。(自分しか)参考にならない気がするが、「断章の重力と幾何学」も今日みんなに与えられる海賊版イデアだと思って、ちょっと遊んでみるといい。楽しいぞ。多分。
- さあ、これで話は大体終わりだ。もう話しそびれたことは無いと思う。眠くて忘れているだけかもしれないが、昨日も夜ふかし(というかやけになって徹夜)したので今日は寝る。
- じゃあ。