2021/03/10_症状

ひどい頭痛がして寝床で臥せっていた。
頭痛薬も効かない。ただひたすら水を飲んで、トイレに行って、他には何も出来ず。今日は殆どそうして過ごした。

少しマシになってTwitterを観ていた。寝床でも見れる。
うちの大学に新入生たちがやってくる。学内者やOBがソワソワする。ちょっとだけタイムラインがざわつく感じが楽しい。アクティブユーザーが増えて、投稿へのリアクションがいつもより早かったりする。
オンライン授業、オンライン読書会で長らく失われていた同時性の恢復。例えば中途半端に3D化したポケモンxyよりも、ドットだったBWやDPtのほうが「リアル」だったのと同じで、中途半端に音声や映像情報を付加したビデオ通話よりも、文字情報だけがリアルタイムにやり取りされるSNSのほうがよっぽど「リアル」だったりする。そういうのがちょっと可笑しい。

小学生の頃、自分はほぼ毎日ひどい頭痛がしていた。偏頭痛持ちなんてレベルじゃない。頭が痛くない日は、年に数回あるかないか。折る指の数を忘れてしまうほど、そういう日は稀だった。バファリンが、ロキソニンが、カロナールが効かなくなる頭痛。代わりに自分は痛みに慣れる。頭がいたいのがデフォルトになる。
こうなると、いつもの頭の痛さなのか、それともそれ以上の痛さなのか、そういう区別が出てくるのが面白い。いつも頭が痛くて、ときどきめちゃくちゃ痛い日がある。めちゃくちゃ痛いときだけ頭痛薬を飲むようにした。

久しぶりの「しっかりした」頭痛を噛み締めながら、記憶を掘り返す。
意味なくスクロールしていたスマホを、枕の傍らに置く。そういえば、自分が1回生、2回生の間は寝る前に何事か思いついてツイートするのが常だったなと思い出す。睡眠の質が悪くなるからと、スマホの代わりに小さなメモを置くようにしたことも更に思い出す。
当時は頭の中が言葉でいっぱいだった。常に何かを考えて、常に何かを思い出す。書き残すべき事柄があまりに多すぎて、ノートもメモもツイートも、もはや自分で管理できないほど膨大になった。
そうして増やした詩篇のすべてが役に立つわけではないけれど、後から読み返したり思い返したりして「大事だったな」と思うことはある。けれどこれは役に立つとか、そういうのではないと思う。

大学生になったばかりの頃のメモ魔と、小学生の頃の慢性的な頭痛は似ている。どちらも抗うことが出来ず、否応なく生活のあり方を変えてしまったという点で2つは酷似する。どちらも等しく、症状と呼んで差し支えない。

症状は一般に怪我や病気の状態を指す言葉だ。そして殆どの場合それは治療を目的とした医学の文脈で語られ、その限りで怪我とは治すべき怪我であり、病気とは治すべき病気のことを指示し、同様に症状も治すべきものを指し示す。しかし、自分がここで言及する症状という術語には治療すべきという文脈灸は存在しない。つまり、単に本人の意図とは無関係に生活や行動の有り様を変化させてしまうようなある種の状態のことを、ここでは症状と呼ぶ。キーポイントは、治すべきかどうかには関与しないということだ。

普通、症状は全て治すべきである。今回の独特の意味での症状の場合に関しても、そのように言うことは出来るだろう。というのも、一般に環境というものは普通の生活を続けるのに適したデザインをしている。症状はそうした環境と相容れない行動様式・生活様式を許容するのだから、生きづらくなるのは自明と言っていいだろう。
しかし、この独特の意味での症状に、自分が悩まされたのは確かなのだが、通常の生活とは別の様式・習慣に浴する体験というのはそれ自体貴重なばかりでなく、自分の生活を相対化・客観化し、それを面白がったり自発的に変容させたりすることができるきっかけになる。そうした意味で自分は症状から何度も恩恵を受けた。

とはいえ、辛いものは辛いものだ。毎日頭が痛いとか、頭の中で言葉が渦巻いて止まらないとか(おもろ)、頭痛がひどくて寝床に臥したまま寝付けないとか、(客観的に観てスラップスティックであれど)辛いことには変わりない。症状は治療すべきだ。しかし普通の生活ではない、別の仕方へ。