2021/07/24_追いかけるほど離れる?

 ダイザン5さんの「キスしたい男」という読み切りを読んだ。非常に良かった。

https://shonenjumpplus.com/episode/3269754496399711731

 

 読み切りを読んで、パスカルが「気晴らし」と呼んだものについて考えた。ある種の精神疾患(強迫観念や幻聴)の実感のある人には「気晴らし」がよく分かると思う。死の恐怖とか漠然とした不安とか特定の攻撃的な強迫観念から逃れるための確実でおそらく唯一の方法は、頭の中を全く別のもので埋めてしまうことだ。賭けに熱中するとか運動するとか働くとか遊ぶとか、何にせよ熱中してそれだけについて考えることで強迫観念から逃れることができる。パスカルはこうした逃走をもっと広義に解釈拡大して「気晴らし」と呼んだのだが、いずれにせよある種の不都合で変更不可能な事実(死ぬとか)に我々は何かしらの形で関わっていながらそれを忘却しおおせているのだから広義も狭義も本質的には同じことになるだろう。

 ともかく、こうした気晴らしには頭を一杯にすることが重要なのだ。そしてこのための必要条件には、気晴らしに疑問の余地がないということ、が含まれていなければならないのではないかと気がついた。これは気晴らしの内容がそれ自身からして疑いの余地がないのでなければならない、というわけではない。気晴らしが疑いの余地がないものと思われることが重要である。例えば余命幾ばくもない男がいる。彼は死の恐怖を忘れるために目の前の賭博に熱中しようとする。しかしもし、ここで賭けに勝ったとて手に入る報酬に使いみちはないだとか、そうでなくとも運に左右されるゲームの何が楽しいのか、一人でサイコロの出目を予想して転がすのと何が違うのか、とか考えたら終わりである。彼は賭博に夢中になることはできないし、すぐさままた死の恐怖で頭が一杯になってしまうだろう。

 パスカルは、試しに賭博者に賞金と同額を与えて賭けをしないようにさせてみたまえ、賭博者はすぐ駄目になってしまうだろう、というようなことを言った。気晴らしによって救済されている人は気晴らしの報酬によってではなく、気晴らしに熱中することによって救われているのだ。

 「熱中することが必要で、また賭事をやらないという条件付きで人がくれても欲しくないものを、それをもうければ幸福になると思いこんで、自分を騙す必要があるのである。それは、情念の対象を自ら作るためであり、それから、あたかも子どもたちが自分で塗りたくった顔を怖がるように、自ら作った目的物に対して自分の欲望や、怒りや、恐れを掻き立てるためである。」(139、p.98)

 

 パスカルは気晴らしは外的なものだから不確実で真の救済にはならないと結論している(170)。気晴らしは外的要因で簡単に中断される。何より熱中を解く要素が非常に多い。自分を騙すのは子供のときほど簡単ではないし、子供の時でさえ簡単ではないのだ。どんな子供でも、自分が何かに夢中になるということ自体に疑問を抱く時が来る。もし来なければその人は幸福である。

 熱中が解けやすいのは何より考える余裕が生まれるときだ。熱中する、夢中になるとは我を忘れること、考える余裕を失うことだ。その逆の状態にあれば熱中は解けてしまう。そして〇〇についての学問は〇〇への熱中を解いてしまうだろう。心理学者は人の心をつかむことができないし、経済学者は投資に失敗すると聞いたことがある。これは典型化がすぎると思うが、わからなくもない。何かについて考えることと何かをすることの間には非常に大きなギャップがあり、ときに考えることは行為することの妨げになる。

 

 卒論が書けない。

 原因は学問とは何をすることかについて言及しているからではないかという気がしてならない。つまり、学問を考えることは学問を実践することとはギャップがあってむしろその妨げになるのではないか、ということだ。とにかくメッキが剥がれた、という印象が強くある。どこに行っても、こんなことして何になるんだろうか、という気分になる。なんというか、僕の扱っている哲学者が晩年、仕事のストレスのためにタバコをバカスコ吸っていたという話に妙に得心がいった。あれは多分自分の仕事を俯瞰して言及することが、これと同様の強いストレスになったのではないだろうか。いやあくまで勝手な妄想でしか無いのだが。今はそういう気がしてならない。