2021/07/27_なにもわからない

 悪い反芻思考と希死念慮しかない。どうしようもないのでいろんな啓発情報を読んだり見たりしている。だいたいどこでも自分に親切にしろという。理屈はわかる。自分以外自分に親切にできるやつ自分を肯定できるやつはいないから、自分で自分を否定するとどこで褒められることもないし褒められても信じなくなるから。それはそうなのだけれど、いったい自分に親切にするってどういうことなのだろうか。自分を甘やかすことならわかる。現状を肯定しつづければいい。けど自分に親切にするってなんだ?ただただ肯定することが親切にすることなのだろうか。よくわからない。

 自己肯定のために自分の好きなことをしましょうといろんな箇所で言われる。嫌なことばかり引き受けると自分の人生が他人の都合で決まっていってしまうからとかなんとか。さっきの話も同じで多分マインドフルネスと呼ばれるものは一貫して今現在の私の幸福をいかに肯定・確保するかの技術なのかなとおもう。たしかに今自分がやっていることを肯定できないと、やり終えたことも今後やることも、どこも褒めるべきポイントはなくなるし、注意喚起されて叱るべきだと思う。それぐらいそのことは忘れやすい。気を抜くとどこかにゴールがあって決定的な評価がどこかで下されるものだと思ってしまうし、そこまで頑張ればいいものだと勝手に決め込んでしまう。誰もどこにもゴール設定していないにもかかわらずだ。しかも報酬を約束していないといつまでもそれが得られないので絶対にモチベーションがなくなる。多分考えられる限り悪いことしか無い。ただ自己批判と自己否定は切り離し難く、自己否定を切ってしまうと自己批判の目がなくなる気がする。もちろんなんらかの明確な目標や理想像、仮想敵が存在するなら自分を改善するための自己批判は出来るだろうが、全てがそんなものと関わりがあるわけではない。

 というかそもそも、一体何を目指そうというのだろうか。自分の目に付く人と片っ端から比べて自分を否定することはしてきたが、その実その誰かになりたいわけでは実は無かったりする。

 自己啓発は啓発された人間が手にすべき習慣のための知識と注意喚起は提供するが、そもそも何の熱意も目標もない人間は手にとったところで空虚になるだけなのではないか。自分がそれではないのか。

 結局またいつもの話に戻ってきてしまう。好きなものがわからない。楽しいと思えない。こんなことして何になるんだと思ってしまう。結局何もわからない。

2021/07/24_追いかけるほど離れる?

 ダイザン5さんの「キスしたい男」という読み切りを読んだ。非常に良かった。

https://shonenjumpplus.com/episode/3269754496399711731

 

 読み切りを読んで、パスカルが「気晴らし」と呼んだものについて考えた。ある種の精神疾患(強迫観念や幻聴)の実感のある人には「気晴らし」がよく分かると思う。死の恐怖とか漠然とした不安とか特定の攻撃的な強迫観念から逃れるための確実でおそらく唯一の方法は、頭の中を全く別のもので埋めてしまうことだ。賭けに熱中するとか運動するとか働くとか遊ぶとか、何にせよ熱中してそれだけについて考えることで強迫観念から逃れることができる。パスカルはこうした逃走をもっと広義に解釈拡大して「気晴らし」と呼んだのだが、いずれにせよある種の不都合で変更不可能な事実(死ぬとか)に我々は何かしらの形で関わっていながらそれを忘却しおおせているのだから広義も狭義も本質的には同じことになるだろう。

 ともかく、こうした気晴らしには頭を一杯にすることが重要なのだ。そしてこのための必要条件には、気晴らしに疑問の余地がないということ、が含まれていなければならないのではないかと気がついた。これは気晴らしの内容がそれ自身からして疑いの余地がないのでなければならない、というわけではない。気晴らしが疑いの余地がないものと思われることが重要である。例えば余命幾ばくもない男がいる。彼は死の恐怖を忘れるために目の前の賭博に熱中しようとする。しかしもし、ここで賭けに勝ったとて手に入る報酬に使いみちはないだとか、そうでなくとも運に左右されるゲームの何が楽しいのか、一人でサイコロの出目を予想して転がすのと何が違うのか、とか考えたら終わりである。彼は賭博に夢中になることはできないし、すぐさままた死の恐怖で頭が一杯になってしまうだろう。

 パスカルは、試しに賭博者に賞金と同額を与えて賭けをしないようにさせてみたまえ、賭博者はすぐ駄目になってしまうだろう、というようなことを言った。気晴らしによって救済されている人は気晴らしの報酬によってではなく、気晴らしに熱中することによって救われているのだ。

 「熱中することが必要で、また賭事をやらないという条件付きで人がくれても欲しくないものを、それをもうければ幸福になると思いこんで、自分を騙す必要があるのである。それは、情念の対象を自ら作るためであり、それから、あたかも子どもたちが自分で塗りたくった顔を怖がるように、自ら作った目的物に対して自分の欲望や、怒りや、恐れを掻き立てるためである。」(139、p.98)

 

 パスカルは気晴らしは外的なものだから不確実で真の救済にはならないと結論している(170)。気晴らしは外的要因で簡単に中断される。何より熱中を解く要素が非常に多い。自分を騙すのは子供のときほど簡単ではないし、子供の時でさえ簡単ではないのだ。どんな子供でも、自分が何かに夢中になるということ自体に疑問を抱く時が来る。もし来なければその人は幸福である。

 熱中が解けやすいのは何より考える余裕が生まれるときだ。熱中する、夢中になるとは我を忘れること、考える余裕を失うことだ。その逆の状態にあれば熱中は解けてしまう。そして〇〇についての学問は〇〇への熱中を解いてしまうだろう。心理学者は人の心をつかむことができないし、経済学者は投資に失敗すると聞いたことがある。これは典型化がすぎると思うが、わからなくもない。何かについて考えることと何かをすることの間には非常に大きなギャップがあり、ときに考えることは行為することの妨げになる。

 

 卒論が書けない。

 原因は学問とは何をすることかについて言及しているからではないかという気がしてならない。つまり、学問を考えることは学問を実践することとはギャップがあってむしろその妨げになるのではないか、ということだ。とにかくメッキが剥がれた、という印象が強くある。どこに行っても、こんなことして何になるんだろうか、という気分になる。なんというか、僕の扱っている哲学者が晩年、仕事のストレスのためにタバコをバカスコ吸っていたという話に妙に得心がいった。あれは多分自分の仕事を俯瞰して言及することが、これと同様の強いストレスになったのではないだろうか。いやあくまで勝手な妄想でしか無いのだが。今はそういう気がしてならない。

2021/07/24_自覚できない疲れ

 昨日は最近より二時間近く遅く眠った。そわそわしていた。

 今日は朝ちょっとは卒論に手を付けようと思ってまとめておいたデータを開いて、ああ別にこれ並べるだけなら後で良いや、と思ってしまった。ココ最近ずっと卒論を後回しにしている。文字数だけで言えばあと1000文字くらいで規定に達してしまうから油断している。本当は執筆済みの箇所を修正して削ったり、まだ書いていないところをはっきりさせる仕事が残っているのに。

 結論を出すためにどれだけの概念を定式化しなければいけないのかはっきりせず、めんどくさいと思ってしまう。なんかどうでもいいことのような、そこまでしてやるほどのことではないような気がしてしまう。

 

 「小林さんちのメイドラゴン」の2期を見ている。3話で、小林がやりたかったのはコスプレで、似合わないからこじれたメイドオタクになったのだと自己分析するところがある。

 

 自分もどこかでズレて学問しなきゃならないと思っていたのだろうか。

 けどそうだとして本当は何がしたかったのか。それに小林は立派なメイドオタクになったのだ。こじれたとは言えそこで何者かになった。何事かやり遂げた。自分は。

 

 なにか書こうとするとどうも暗い話ばかり思いつくようになった。

 昨日は小説を書いていた。とにかく何かが作りたくて、それでいいと思った。でも後からこんなデタラメは書くべきではなかったかも知れないし、少なくとも私以外の誰の役に立つのだろうかと思った。この時私は私の役に立つということを全く忘れていて、なんなら無視しようと努めている。

 

 あんまり暗いので、多分先月かそれより前、親に「お前を大事にするのはお前だけなのに、自分で自分大事にしなくてどうするんだ」と言われた記憶がある。夢だったかも。はっきりしないが、とにかく。情けない話だ。けれどどうすればいいというのだろう。私は私なぞ大切ではない。ただ苦しみから逃げたいだけだ。聞こえぬ他人の声から身を守りたい。縁を切りたい。どうにか静かになってほしい。そのために自分が死ぬか、何かの奇跡が起きて全部うまく言って彼らに有無を言わせなくなるか、聞こえないふりをしてやり過ごすかできればいい。今は聞こえないふりをしている。立ち上がれない。ずっと眠っても居られない。

 

 うちの家族はよく寝る。少なくとも親は早く寝る。

 今日妹より遅く寝て早く起きたら、妹が「おかしい」と言ってきた。そんなことはないとおもう。母親は「お兄ちゃんは生き急いでいるのよ」と言った。どういうことだ。

 そんな自覚はなかった。けれどたしかに早く死にたい。

2021/07/23_電子書籍と紙の本

 今読んでいる新書に「あと五年で電子書籍の売上が紙の本の売上を超えるだろう」ということが書いてある。2018年なので2023年にはそうなるということだ。

 2020年の段階で電子書籍の本市場占有率は25%弱。ココ最近占有率を順調に伸ばしているがそれでもあと2年で紙の本の売り上げを超えるというのはちょっと考えられない。ただ電子コミックの売上が電子書籍の売上増を後押ししているらしく、これからなにかの漫画が爆発的に売り上げることがあったりすればもしかするとあるのかも知れない。

https://hon.jp/news/1.0/0/30504

 しかしもう少し紙の本が粘るような気がする。

 1万部売れたらベストセラーの世界だ。大ヒット漫画となれば別だが小説みたいな紙の本の市場規模は人口1億人とは思えないぐらいに小さい。要するに堅い購買層は程度の差こそあれ読書家と呼ばれるような人たちだ。そして彼らがすぐに電子書籍に乗り換えるとは思わない。

 本好きには本の物質的な側面に特別な感情を持つ人も多い。本棚に並べて鑑賞したい人もいるし、物理的に積ん読しておくことが読書を進めるプレッシャーになる人もいる。何より紙の本と違って電子書籍は気が散る。常にチカチカと発行しているから目がつかれるのもそうだが、読書する以外の機能が付きすぎている。設定である程度維持れるかも知れないが、大抵の電子書籍のリーダーは倍率変更や付箋、引用、ノート、ページ移動のためのバーなどがいつもスタンバイしている。それがちらつくと気が削がれる。本を読むことだけに集中することが少し難しい。何より読書専用のタブレットでもなければ、PCやスマホなどその他の機能が常にスタンバイしている。メールやSNSの通知が来て集中をそがれることもあるだろうし、ゲームのスタミナが回復することもあるだろう。また大きいのはだいたい常に時計が見えていることだ。時刻が表示されていると焦ったり次の予定がちらついて集中できない。アプリによってはページを繰る速度を計測して読了までの予測時間を表示するものもある。それによって読み進められる人はいいが、ペースアップに気を取られて本の世界に沈滞することができなくなってしまう。

 正直言って電子書籍の読書環境はまだまだ発展途上でとても良いものとはいえない。そういうわけで自分はなかなか電子に乗り換えられないし、電子書籍が紙の本の売り上げを超えるのもまだ当分先のような気がするのだ。

 

 もし電子書籍の読書環境が揃ったら。あるいは紙の本の印刷コストを槍玉に挙げ攻撃する言論が増えたら(例えば極端な森林保護論者とか)。もしくは電子書籍のコストが非常に下がったら。例えば半永久的にゼロコストで発電する方法が見つかるとか、電子書籍の市場規模拡大や読書人口そのものの拡大が起こって電子書籍一冊買うためのコストがとても低くなったら、市場は逆転するかも知れないし、紙の本は消えるかも知れない。まあ当分先のことだろうが。

2021/07/22_伊勢・パスカル・空冷

 昨日父親の気まぐれで伊勢参りに行ってきた。スーツで。ちなみに昨日の伊勢の最高気温は32度である。クールビズなんて無かった。いいね?

 

 二見ヶ浦、外宮、内宮、猿田彦神社伊雑宮。距離と時間の関係で順番はこの通りではないが、この5箇所を参拝してきた。

 うちは神道というわけでもない(と思う)のだが、父親が熱心であちこちの神社に通っている。それで時々道連れになったり、代わりに行ったりする。

 なるだけスピリチュアルは信じないようにしているし、実際的には参拝に瞑想以上の効果はないと考えているので、何度も神社に通うのは時間が奪われる気がして嫌な気持ちになる。確かに運に関することを全部神頼みにしておくのは、コントロール不可能な要素についての不安を和らげてくれるだろうし、狭い山道を抜けてひらける境内は人間の緊張を適度にコントロールして良い集中状態を作ってくれる(JINSのThink Labがこれに関する研究をやっていたはず)からメンタルが整うかも知れない。しかしそれだけの効果に対して時間とお金をかけすぎては居ないだろうか、と思ってしまうのが素直なところだ。だからといって信仰を否定するつもりはまったくないが。

 そういうわけで参拝(しかも一日かかる)となるとうんざりするのだが、せっかく時間を使うのだから今回は精一杯楽しもうと思って色々観察することにした。

 気をつけて観察していると色々目について面白い。今回は色々発見できた。

 

 外宮には3つの岩が支え合うようにひとまとまりになったものがある。周りは4つの木と縄で囲われている。そこの前を通ったおばさん参拝者が何やら手を合わせたあと手をかざして去っていった。伊勢神宮のような大きい神社だとそこらの石像や大木をやたらと擦りたがるご婦人が見かけられるのだが、これもその一種なのだろうか。

 しかし場所が正宮の直前で、周りにはほとんどなにもない。ただのパワースポットと言うには少々異質な雰囲気だ。なによりこの四柱は結界ではないのか。

 外宮参拝後の移動中調べてみるとどうやらこれ「川原祓戸」と言って式年遷宮のときに祓い清めをするための聖域らしい。式年遷宮というのは正宮のお引越しのことである。ご存じない方は適当な動画を検索すると良い。伊勢の正宮は20年周期で社を隣に移動する。20年スパンの反復横とびを繰り返しているのだ。要するに大層な儀式である。となると、大層な儀式で使う聖域は安易に手をかざして良いものではないだろう。あのおばさん大丈夫だろうか。いやなにもないと思うが。

 

 見つけたこと全てに特別な意味があるとは限らない。寺社仏閣なら何でも特別な意味があると思ったら、そうでもない……のかもしれない。まして日常の出来事ならなおさらだ。記号論学者だったエーコですら『薔薇の名前』で記号なら何でも意味があるわけではないと暴露したのだった。何より何でもかんでも意味を読み取ると意味が飽和して発狂してしまうだろう。意味の氾濫については以前に書いたことがある。

https://note.com/tomatome_/n/nb6b27a5532f6#zrhqF

 しかし最近思うのだ。意味の氾濫を全肯定していては我々は探求に溺れてしまう。適当なところで我々は適当な答えを出すべきなのだ。「雑。話し方。私はそれに専念しようと思ったのですが」(54)「学問をあまりに深く究める人々に反対して書くこと」(76)今回はパスカルに倣ってみよう。ただしパスカルとは別の仕方で。

 

 外宮と内宮でそれぞれ「御饌」を受けた。畳間に正座して受けるのだが、見たことのない畳縁をしている。移動中調べられる限りの家紋や日本文様を調べていたのだが一致するものがなかなか見つからない。どういうことだろう。何か伊勢でしか使われていない特別なものなのだろうか。だとしたら非常に面白いのに。

 結局帰って調べてみるとこのページに行き着いた。

http://www.tatami-club.com/?tatamiten=%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%95%B3%E5%BA%97

 どうやらこの店の畳縁らしい。見る限りこの画像以外でこの畳縁の柄を見つけることはできなかった。神宮の畳縁は青だったので色違いだが完全に柄が一致しているし、紹介文を見る限り寺社仏閣に畳を提供しているらしい。結局実際的な問題だったということだろう。これ以上の探求に意味はない。

 

 適当な答えを出して探求をやめることは少なくとも人間を不幸や絶望から遠ざける。「気を紛らわすこと。人間は、死と不幸と無知とを癒やすことができなかったので、幸福になるために、それらのことについて考えないことにした」(168)

 パスカルは信仰への道を説くために、一度惨めさに向き合って絶望を知ることを推奨してはいるのだが、だからといってハッキリと気晴らしを否定するわけではない。むしろ人には必要なのだと言ったりもする(139、p.98)。

 

 自分もそうやって考えずに救済されたい。最近そのことについてよく考えるし、できるだけそのように生きている。だが、根本的に救済されることはないのだろう。このまま生きていてもやっぱり死ぬこと以上の救済はないままなのかも知れない。そういう感覚は最近ここで小説に起こした。

https://kakuyomu.jp/works/16816452221134226008/episodes/16816452221137996558

 

 パスカルの言うように絶望と向き合って死後救済されることを信じるべきなのかも知れない。信仰を持つべきなのかもしれない。

 伊勢に向かう車窓でたくさんの山を見た。私が生活している人間の管理のもとにある世界とは全く別の、未知と恐れを感じさせる世界。都市部に生活が集中するからこその田舎に対する幻想。ネットロアの世界ではそうした感覚が広く共有され増幅されていたりする。そういうものを読んでいると、知らない世界があって知らないルールがそこにはあるような気がする。つまり物質的に人間が操作可能なものとして説明できない現象や法則がそこには存在して、儀礼的にしかそれらには介入できなかったり大賞与要求されたりするのではないかという一種の気分。

 伊雑宮はそういう雰囲気を非常に強く感じた。本宮を回ったあとで非常に疲れていたから何か過敏になていたのかも知れない。古く日本の神は祝福だけでなく呪いも司ったと聞いたことがある。むしろそちらのほうが本来の力なのだったとか。そういう話のせいだろうか。代償を求められた、と思った。いつもどおり手を合わせて挨拶するような気持ちで参拝する。日常が続くことを感謝してその継続を願う。しかし相手は初めて手を合わせる神様だ。ゾッとする雰囲気がした。膝を取られると思った。

 

 その場所から離れるとそういう気分が奇妙な思い込みであったような気がしてくる。光波耀子の『黄金珊瑚』を思い出した。少なくとも気分では今そういう世界に生きているし、そういう領域があり得る気がした。熱心に一見不合理な信仰を持つ人達、儀礼的な信仰を持つ人達、スピリチュアルを信じる人達が実際にいることは確かなのだから、自分がそうした信仰を持つことは不可能ではないはずなのだ。信仰は直ぐ側に転がっている、と思った。

 

 汗だくになって帰った。昼は特に脳がうだったみたいだった。散髪に行くべきだった。毛量が多くて熱がこもる。

 スマホやパソコンを長期間高性能で使い続けるために夏場特に注意すべきなのは熱だ。なんとかして本体の温度をできるだけ低く保たなければならない。最近USB扇風機を使っている。小さな台を使って机との接地面を減らして熱がこもりにくくしている。

 脳も冷やすべきだ。これは体感だが明らかに性能が落ちる。ぼんやりする。受け答えする気力がなくなる。考える余裕など無い。

 最近は特にマスクがある。外すわけにいかないからなんとかして涼しく保ちたい。脳みそを冷やすには頭皮から冷やすか口腔内の温度を低くする以外にない。マスクをしているとは区域がどうしても熱くなる。昨日はお腹を冷やさない程度に極力冷水を飲んでいた。

 

 頭を冷やしてまた元の生活に戻らなければならない。私の卒論はデカルト主義の哲学だ。パスカルが否定し諦めた真理の探求を本気でやっている。しかも哲学者本人はそれなしに生きられなかったとまで言うのだ。今の私の感覚とは全く異なる。正直その漢字は全然わからない。真理が探求できるとしてそれは本当にそんなに良いものなのだろうか。もっと別の角度から光を当てるべきなのかも知れない。

 

2021/07/20_ゲームの運と努力

 昨日は頼まれた雑用とゲームで一日が終わった気がする。いや、多少読んだり書いたりもしたか。

 今日はゲームの話。

 

 ゲームには運要素と努力要素がある。例えばババ抜きとか半丁とかはほぼ運。ブラックジャックは頑張れば計算できるから運と努力の間ぐらい。RPGはやり込めば必ず相手を倒せるので基本は努力マッハ。と、こんな感じで運要素と努力要素の占める割合がそのゲームの毛色をかんたんに把握する指標になりうる。そしてコイツが有用なのは、人間が予期しない報酬に喜ぶ動物かつ目標と報酬のサイクルが早いほど快楽を感じる動物であること、人によってよりそのどちらに快楽を感じるかに差異があることに由来する。要するに、運ゲーとやりこみゲーどっちが好きかという話がある。

 アクションゲームが苦手で好きなRPGがいくつかあったので、長らく自分はRPGが好きだと思っていた。たしかにそれはそうなのだが、最近100%RPG好きではないとわかってきた。自分はやりこみが嫌いだ。時間を奪われるし、いつか必ず終わってしまう。なんらかのコンプリートのために最大限効率化された努力をすることは楽しいけれど、やり終えると残ったのはもう遊ぶところのないゲームだけ。もちろんそれまでの間に楽しい思いはしたのだったと思うが、終わってしまうとそのゲームについての7割の記憶は後半の機械的で効率化されたやりこみについてのもので、最初の楽しかった3割の記憶はあまりにも小さく見える。

 やり方が悪かったのかも知れないし、努力が足りなかったのかも知れない。だがいつも現実では努力が報われなかった。良い結果が得られるといつも偶々という気がしてならない。ゲーム以外の世界に生きているとなかなか目標を達成する快楽は得られない。苦い記憶のほうが多くなる。

 やりこみゲームが好きだった。必ず努力に報いてくれるから。けれど終わってしまえば手元には何も残らない。その事がよくわからなかったし、今も少しそのことから逃げている。

 無限に逃げ続けられるゲームが、無限にやり込めるゲームがほしいと思った。けれどそんなものアクション以外ではほとんど存在しない。お金もない。気軽に手出しできない。

 だから運ゲーに目をつけた。やりこみとは別の快楽を刺激して、渇望を満たしてやる。その代わりやりこみはどこかゲームとは別の領域で果たす。

 

 そういうつもりで最近始めたゲームがある。ストーリーもキャラクターもクオリティも良い。運が多分に絡む。努力は報われたり報われなかったりする。楽しい。

 しかし3日目にしてすでに、この程度の運要素はある種の長時間の努力によって克服されるものだということがわかってしまう。また運だけで結果を出すことができないことも。このゲームは適切な努力をしながらかつ運に左右されることで報酬に揺らぎが出るゲームだ。RPGよりはよっぽど現実に近いが、ほとんど障害が存在せず攻略法が広く認知されかんたんにそれにアクセスできる。

 思っていたのとは少し違う様相を呈した。もっとカジュアルでもっと気まぐれな何かを想定していた。

 すでに時間は奪われ始めている。運要素のゆらぎこそあれ基本はやりこみゲームだ。自然と手持ちの札で最大限合理的な動きを探ってプレイするようになる。さて、これで良かったんだろうか。

 

 

2021/07/18_ネットからもっとちゃんと引きこもること

 インターネットをやっていると楽しいが、正直心が弱るし不健康になる。単純に夜ふかしが悪いとかいう話ではない。ネットは人間をスキゾ・キッズ(1) にするという話。ネットをやると誰もがよそ見がちな子供になるという話。しかもそれは健康的ではないという話。よそ見がすぎればどこも見られないという話。

 (1) 浅田彰「スキゾ・カルチャーの到来」参照。ドゥルーズの『アンチ・オイディプス』から逃走線を引く分裂症(スキゾイド)患者の話を引っ張ってきて「これって子供みたい。でもそれでいいよね」って話(?)。

 

 最近ゲームをしてすごく面白かったのだけれど、ファンアートを描いてプレイ日記も書き始めなければならない(かもしれない)と思って、思っていることにゾッとした。

 今日Twitterを見たらフォロワーがまた減ってて、いつものじゃないツイート、連投ツイートをした瞬間フォローが外されてることに気づいて嫌になった。いいねがついてないこととかがそのまま自分の言明に何の価値もないことを意味してるみたいな気がして嫌だった。スマホTwitterはログアウトした。

 齋藤孝『ネット断ち』というのを覗き見。現代人はSNSを中心に自己評価から他者評価に評価軸がシフトしているとか、人間は我慢できること心の使いみちに限界があるとか、そういうわけだからネットから離れようねとかいうことが書いてある。主語がでかすぎると思った。でも一理以上あると思った。これについてもなにか書かなければならないと思って辛くなった。

 

 インターネットから引き剥がされて、もっとちゃんと一人にならなければならない。自分の情報とか自分の集団の思想を強化して自閉するのとは別の仕方で、他人を否定せずに自閉することなしに自分に立ち返ることが出来ると思う(けれどそのことは昔からよく理解されないことらしい……)。自分の仕方で自己責任で自分の徳を立てること。

 今も存在しない声がしている。君ははっきり引用せずとも歴史上の彼らを念頭に彼らの言葉を借りて思想を語っているけれど、それはお前のものではないのにそんなことして良いのか、と。これが具体的な誰かなら、どうせ彼だって誰かの言葉を借りているのだからとスルーできるのだが、存在しない人物の自分のなかで発せられた声にどんな仕方で答えたら良いのだろうか。頭の中にはインターネット人格がすでにできているのではないだろうか。この存在しない人物はインターネットの罵詈雑言からできた人格なのではないだろうか。だからしきりに私を攻撃する言動を、原理的に反論不可能で、すべての創造的な活動を滅多刺しにする最強の暴言で吐き続けるのか。息ができなくなてきた。

 

 何のために生きているのかわからなくなる。気がつくと不特定多数の他人の評価で生きている。全てができなければならない。不可能だ。証明できない。自信がない。やらなければお前に生きている価値はない。どうしてそこまで。理由など。価値がないからだ。自分の価値が。自分で立てた価値がないから。自分で価値を建てないから。自分だけの徳を持ってこなかったから。あるいは置き忘れたから。なくしてしまったから。いつも誰かに叱られてきたから。その気持がもう自律してない。どこにも自分の気持ちなんて無かった。最初から?本当に?楽しかった?わからない?何も?そうでもない。多分。でも自分の記憶だって確信がない。あなたが覚えていることなのに。覚えているのを思い出したのか「思い出したこと」を作ったのか。疑ってもキリはない。ならどこかで切断する。自分勝手に。身勝手に。有限性。身体性。自己責任。お前の場所。eigenな領域。それすらも自己構成する。だってそれがないと、話にならないから。

 

 今日は面白いゲームがあるので楽しかった。昼頃用事にも出掛けた。筋肉痛になってて動かすと痛いところがあったりする。でも全部僕のものだ。僕の話だ。だから話さない。

 

 書くことと考えることが一緒に起こることについて書く時、それについて考えているということを私はここに書き出している。

 修辞が長くなる。いろんな形容がつく。手に取るようにわかる概念にはいろんな制約と性格と小話がついている。手に取るようにわかる。見える。だからその速度で書くことが出来るしその速度で書くことによって見えているのかも知れなかったりする。わからない。とにかくそういう事態がある。報告する。それ自体が考えることだったりする。見ているのか考えて作っているのかわからなくなる。「私はいまコップを見ています」それとも「私はいまコップを見ることを作っています」。頭の中のことだとこの協会は益々なくなる。作ることと見えることが一緒くたになっていく。領域が線になっていく。存在するものについて存在する事態について報告することとは違う。あることについて書くことは編集できる短く出来る売り込むような文章で書くことが出来る。考えることと書くことが一緒になるとそういう領域はなくなる。書くことだけにある領域が存在しなくなっていく。じゃあ書くことによって見えなくなるよう生きもあるのではなかろうか。つまり書かずに考えることでしか見えていない領域とか、書くことのできない領域を考えるとかいうことがあるのではなかろうか。というあまりにも図式的で短絡的な考え方。とツッコミを入れてみる。とりあえず指が乗る。キーボードに。手が滑る。キーボードで。するとなにか書き始める。書き始めるとそれを埋め合わせるみたいに言い訳するみたいに言葉が溢れてきて、書くために考えていたのか考えたために欠かされているのかわからなくなってくる。わからなくなっていく。境界線には揺れが存在する。書くことと考えることの領域がどっちもゼロになっていく、という感じがわかるということは、どっちの領域も揺れているということ、をわかっているということだったりする?多分ね。ぶった切る。句点を打って。おわり。

 

 人間はどれぐらいの速度でブラウジング、タブの切替、チャンネルの変更をするのだろうか。どのぐらいの速度から何も見ていないようになるのだろうか。能動性のないブラウジングが無に変わることと、考えて書くことが無に変わることの間にはどのくらいの違いがあって、能動性ってどこにあるんだろう。ね。