2021/07/22_伊勢・パスカル・空冷

 昨日父親の気まぐれで伊勢参りに行ってきた。スーツで。ちなみに昨日の伊勢の最高気温は32度である。クールビズなんて無かった。いいね?

 

 二見ヶ浦、外宮、内宮、猿田彦神社伊雑宮。距離と時間の関係で順番はこの通りではないが、この5箇所を参拝してきた。

 うちは神道というわけでもない(と思う)のだが、父親が熱心であちこちの神社に通っている。それで時々道連れになったり、代わりに行ったりする。

 なるだけスピリチュアルは信じないようにしているし、実際的には参拝に瞑想以上の効果はないと考えているので、何度も神社に通うのは時間が奪われる気がして嫌な気持ちになる。確かに運に関することを全部神頼みにしておくのは、コントロール不可能な要素についての不安を和らげてくれるだろうし、狭い山道を抜けてひらける境内は人間の緊張を適度にコントロールして良い集中状態を作ってくれる(JINSのThink Labがこれに関する研究をやっていたはず)からメンタルが整うかも知れない。しかしそれだけの効果に対して時間とお金をかけすぎては居ないだろうか、と思ってしまうのが素直なところだ。だからといって信仰を否定するつもりはまったくないが。

 そういうわけで参拝(しかも一日かかる)となるとうんざりするのだが、せっかく時間を使うのだから今回は精一杯楽しもうと思って色々観察することにした。

 気をつけて観察していると色々目について面白い。今回は色々発見できた。

 

 外宮には3つの岩が支え合うようにひとまとまりになったものがある。周りは4つの木と縄で囲われている。そこの前を通ったおばさん参拝者が何やら手を合わせたあと手をかざして去っていった。伊勢神宮のような大きい神社だとそこらの石像や大木をやたらと擦りたがるご婦人が見かけられるのだが、これもその一種なのだろうか。

 しかし場所が正宮の直前で、周りにはほとんどなにもない。ただのパワースポットと言うには少々異質な雰囲気だ。なによりこの四柱は結界ではないのか。

 外宮参拝後の移動中調べてみるとどうやらこれ「川原祓戸」と言って式年遷宮のときに祓い清めをするための聖域らしい。式年遷宮というのは正宮のお引越しのことである。ご存じない方は適当な動画を検索すると良い。伊勢の正宮は20年周期で社を隣に移動する。20年スパンの反復横とびを繰り返しているのだ。要するに大層な儀式である。となると、大層な儀式で使う聖域は安易に手をかざして良いものではないだろう。あのおばさん大丈夫だろうか。いやなにもないと思うが。

 

 見つけたこと全てに特別な意味があるとは限らない。寺社仏閣なら何でも特別な意味があると思ったら、そうでもない……のかもしれない。まして日常の出来事ならなおさらだ。記号論学者だったエーコですら『薔薇の名前』で記号なら何でも意味があるわけではないと暴露したのだった。何より何でもかんでも意味を読み取ると意味が飽和して発狂してしまうだろう。意味の氾濫については以前に書いたことがある。

https://note.com/tomatome_/n/nb6b27a5532f6#zrhqF

 しかし最近思うのだ。意味の氾濫を全肯定していては我々は探求に溺れてしまう。適当なところで我々は適当な答えを出すべきなのだ。「雑。話し方。私はそれに専念しようと思ったのですが」(54)「学問をあまりに深く究める人々に反対して書くこと」(76)今回はパスカルに倣ってみよう。ただしパスカルとは別の仕方で。

 

 外宮と内宮でそれぞれ「御饌」を受けた。畳間に正座して受けるのだが、見たことのない畳縁をしている。移動中調べられる限りの家紋や日本文様を調べていたのだが一致するものがなかなか見つからない。どういうことだろう。何か伊勢でしか使われていない特別なものなのだろうか。だとしたら非常に面白いのに。

 結局帰って調べてみるとこのページに行き着いた。

http://www.tatami-club.com/?tatamiten=%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%95%B3%E5%BA%97

 どうやらこの店の畳縁らしい。見る限りこの画像以外でこの畳縁の柄を見つけることはできなかった。神宮の畳縁は青だったので色違いだが完全に柄が一致しているし、紹介文を見る限り寺社仏閣に畳を提供しているらしい。結局実際的な問題だったということだろう。これ以上の探求に意味はない。

 

 適当な答えを出して探求をやめることは少なくとも人間を不幸や絶望から遠ざける。「気を紛らわすこと。人間は、死と不幸と無知とを癒やすことができなかったので、幸福になるために、それらのことについて考えないことにした」(168)

 パスカルは信仰への道を説くために、一度惨めさに向き合って絶望を知ることを推奨してはいるのだが、だからといってハッキリと気晴らしを否定するわけではない。むしろ人には必要なのだと言ったりもする(139、p.98)。

 

 自分もそうやって考えずに救済されたい。最近そのことについてよく考えるし、できるだけそのように生きている。だが、根本的に救済されることはないのだろう。このまま生きていてもやっぱり死ぬこと以上の救済はないままなのかも知れない。そういう感覚は最近ここで小説に起こした。

https://kakuyomu.jp/works/16816452221134226008/episodes/16816452221137996558

 

 パスカルの言うように絶望と向き合って死後救済されることを信じるべきなのかも知れない。信仰を持つべきなのかもしれない。

 伊勢に向かう車窓でたくさんの山を見た。私が生活している人間の管理のもとにある世界とは全く別の、未知と恐れを感じさせる世界。都市部に生活が集中するからこその田舎に対する幻想。ネットロアの世界ではそうした感覚が広く共有され増幅されていたりする。そういうものを読んでいると、知らない世界があって知らないルールがそこにはあるような気がする。つまり物質的に人間が操作可能なものとして説明できない現象や法則がそこには存在して、儀礼的にしかそれらには介入できなかったり大賞与要求されたりするのではないかという一種の気分。

 伊雑宮はそういう雰囲気を非常に強く感じた。本宮を回ったあとで非常に疲れていたから何か過敏になていたのかも知れない。古く日本の神は祝福だけでなく呪いも司ったと聞いたことがある。むしろそちらのほうが本来の力なのだったとか。そういう話のせいだろうか。代償を求められた、と思った。いつもどおり手を合わせて挨拶するような気持ちで参拝する。日常が続くことを感謝してその継続を願う。しかし相手は初めて手を合わせる神様だ。ゾッとする雰囲気がした。膝を取られると思った。

 

 その場所から離れるとそういう気分が奇妙な思い込みであったような気がしてくる。光波耀子の『黄金珊瑚』を思い出した。少なくとも気分では今そういう世界に生きているし、そういう領域があり得る気がした。熱心に一見不合理な信仰を持つ人達、儀礼的な信仰を持つ人達、スピリチュアルを信じる人達が実際にいることは確かなのだから、自分がそうした信仰を持つことは不可能ではないはずなのだ。信仰は直ぐ側に転がっている、と思った。

 

 汗だくになって帰った。昼は特に脳がうだったみたいだった。散髪に行くべきだった。毛量が多くて熱がこもる。

 スマホやパソコンを長期間高性能で使い続けるために夏場特に注意すべきなのは熱だ。なんとかして本体の温度をできるだけ低く保たなければならない。最近USB扇風機を使っている。小さな台を使って机との接地面を減らして熱がこもりにくくしている。

 脳も冷やすべきだ。これは体感だが明らかに性能が落ちる。ぼんやりする。受け答えする気力がなくなる。考える余裕など無い。

 最近は特にマスクがある。外すわけにいかないからなんとかして涼しく保ちたい。脳みそを冷やすには頭皮から冷やすか口腔内の温度を低くする以外にない。マスクをしているとは区域がどうしても熱くなる。昨日はお腹を冷やさない程度に極力冷水を飲んでいた。

 

 頭を冷やしてまた元の生活に戻らなければならない。私の卒論はデカルト主義の哲学だ。パスカルが否定し諦めた真理の探求を本気でやっている。しかも哲学者本人はそれなしに生きられなかったとまで言うのだ。今の私の感覚とは全く異なる。正直その漢字は全然わからない。真理が探求できるとしてそれは本当にそんなに良いものなのだろうか。もっと別の角度から光を当てるべきなのかも知れない。