2021/07/18_ネットからもっとちゃんと引きこもること

 インターネットをやっていると楽しいが、正直心が弱るし不健康になる。単純に夜ふかしが悪いとかいう話ではない。ネットは人間をスキゾ・キッズ(1) にするという話。ネットをやると誰もがよそ見がちな子供になるという話。しかもそれは健康的ではないという話。よそ見がすぎればどこも見られないという話。

 (1) 浅田彰「スキゾ・カルチャーの到来」参照。ドゥルーズの『アンチ・オイディプス』から逃走線を引く分裂症(スキゾイド)患者の話を引っ張ってきて「これって子供みたい。でもそれでいいよね」って話(?)。

 

 最近ゲームをしてすごく面白かったのだけれど、ファンアートを描いてプレイ日記も書き始めなければならない(かもしれない)と思って、思っていることにゾッとした。

 今日Twitterを見たらフォロワーがまた減ってて、いつものじゃないツイート、連投ツイートをした瞬間フォローが外されてることに気づいて嫌になった。いいねがついてないこととかがそのまま自分の言明に何の価値もないことを意味してるみたいな気がして嫌だった。スマホTwitterはログアウトした。

 齋藤孝『ネット断ち』というのを覗き見。現代人はSNSを中心に自己評価から他者評価に評価軸がシフトしているとか、人間は我慢できること心の使いみちに限界があるとか、そういうわけだからネットから離れようねとかいうことが書いてある。主語がでかすぎると思った。でも一理以上あると思った。これについてもなにか書かなければならないと思って辛くなった。

 

 インターネットから引き剥がされて、もっとちゃんと一人にならなければならない。自分の情報とか自分の集団の思想を強化して自閉するのとは別の仕方で、他人を否定せずに自閉することなしに自分に立ち返ることが出来ると思う(けれどそのことは昔からよく理解されないことらしい……)。自分の仕方で自己責任で自分の徳を立てること。

 今も存在しない声がしている。君ははっきり引用せずとも歴史上の彼らを念頭に彼らの言葉を借りて思想を語っているけれど、それはお前のものではないのにそんなことして良いのか、と。これが具体的な誰かなら、どうせ彼だって誰かの言葉を借りているのだからとスルーできるのだが、存在しない人物の自分のなかで発せられた声にどんな仕方で答えたら良いのだろうか。頭の中にはインターネット人格がすでにできているのではないだろうか。この存在しない人物はインターネットの罵詈雑言からできた人格なのではないだろうか。だからしきりに私を攻撃する言動を、原理的に反論不可能で、すべての創造的な活動を滅多刺しにする最強の暴言で吐き続けるのか。息ができなくなてきた。

 

 何のために生きているのかわからなくなる。気がつくと不特定多数の他人の評価で生きている。全てができなければならない。不可能だ。証明できない。自信がない。やらなければお前に生きている価値はない。どうしてそこまで。理由など。価値がないからだ。自分の価値が。自分で立てた価値がないから。自分で価値を建てないから。自分だけの徳を持ってこなかったから。あるいは置き忘れたから。なくしてしまったから。いつも誰かに叱られてきたから。その気持がもう自律してない。どこにも自分の気持ちなんて無かった。最初から?本当に?楽しかった?わからない?何も?そうでもない。多分。でも自分の記憶だって確信がない。あなたが覚えていることなのに。覚えているのを思い出したのか「思い出したこと」を作ったのか。疑ってもキリはない。ならどこかで切断する。自分勝手に。身勝手に。有限性。身体性。自己責任。お前の場所。eigenな領域。それすらも自己構成する。だってそれがないと、話にならないから。

 

 今日は面白いゲームがあるので楽しかった。昼頃用事にも出掛けた。筋肉痛になってて動かすと痛いところがあったりする。でも全部僕のものだ。僕の話だ。だから話さない。

 

 書くことと考えることが一緒に起こることについて書く時、それについて考えているということを私はここに書き出している。

 修辞が長くなる。いろんな形容がつく。手に取るようにわかる概念にはいろんな制約と性格と小話がついている。手に取るようにわかる。見える。だからその速度で書くことが出来るしその速度で書くことによって見えているのかも知れなかったりする。わからない。とにかくそういう事態がある。報告する。それ自体が考えることだったりする。見ているのか考えて作っているのかわからなくなる。「私はいまコップを見ています」それとも「私はいまコップを見ることを作っています」。頭の中のことだとこの協会は益々なくなる。作ることと見えることが一緒くたになっていく。領域が線になっていく。存在するものについて存在する事態について報告することとは違う。あることについて書くことは編集できる短く出来る売り込むような文章で書くことが出来る。考えることと書くことが一緒になるとそういう領域はなくなる。書くことだけにある領域が存在しなくなっていく。じゃあ書くことによって見えなくなるよう生きもあるのではなかろうか。つまり書かずに考えることでしか見えていない領域とか、書くことのできない領域を考えるとかいうことがあるのではなかろうか。というあまりにも図式的で短絡的な考え方。とツッコミを入れてみる。とりあえず指が乗る。キーボードに。手が滑る。キーボードで。するとなにか書き始める。書き始めるとそれを埋め合わせるみたいに言い訳するみたいに言葉が溢れてきて、書くために考えていたのか考えたために欠かされているのかわからなくなってくる。わからなくなっていく。境界線には揺れが存在する。書くことと考えることの領域がどっちもゼロになっていく、という感じがわかるということは、どっちの領域も揺れているということ、をわかっているということだったりする?多分ね。ぶった切る。句点を打って。おわり。

 

 人間はどれぐらいの速度でブラウジング、タブの切替、チャンネルの変更をするのだろうか。どのぐらいの速度から何も見ていないようになるのだろうか。能動性のないブラウジングが無に変わることと、考えて書くことが無に変わることの間にはどのくらいの違いがあって、能動性ってどこにあるんだろう。ね。