2021/07/20_ゲームの運と努力

 昨日は頼まれた雑用とゲームで一日が終わった気がする。いや、多少読んだり書いたりもしたか。

 今日はゲームの話。

 

 ゲームには運要素と努力要素がある。例えばババ抜きとか半丁とかはほぼ運。ブラックジャックは頑張れば計算できるから運と努力の間ぐらい。RPGはやり込めば必ず相手を倒せるので基本は努力マッハ。と、こんな感じで運要素と努力要素の占める割合がそのゲームの毛色をかんたんに把握する指標になりうる。そしてコイツが有用なのは、人間が予期しない報酬に喜ぶ動物かつ目標と報酬のサイクルが早いほど快楽を感じる動物であること、人によってよりそのどちらに快楽を感じるかに差異があることに由来する。要するに、運ゲーとやりこみゲーどっちが好きかという話がある。

 アクションゲームが苦手で好きなRPGがいくつかあったので、長らく自分はRPGが好きだと思っていた。たしかにそれはそうなのだが、最近100%RPG好きではないとわかってきた。自分はやりこみが嫌いだ。時間を奪われるし、いつか必ず終わってしまう。なんらかのコンプリートのために最大限効率化された努力をすることは楽しいけれど、やり終えると残ったのはもう遊ぶところのないゲームだけ。もちろんそれまでの間に楽しい思いはしたのだったと思うが、終わってしまうとそのゲームについての7割の記憶は後半の機械的で効率化されたやりこみについてのもので、最初の楽しかった3割の記憶はあまりにも小さく見える。

 やり方が悪かったのかも知れないし、努力が足りなかったのかも知れない。だがいつも現実では努力が報われなかった。良い結果が得られるといつも偶々という気がしてならない。ゲーム以外の世界に生きているとなかなか目標を達成する快楽は得られない。苦い記憶のほうが多くなる。

 やりこみゲームが好きだった。必ず努力に報いてくれるから。けれど終わってしまえば手元には何も残らない。その事がよくわからなかったし、今も少しそのことから逃げている。

 無限に逃げ続けられるゲームが、無限にやり込めるゲームがほしいと思った。けれどそんなものアクション以外ではほとんど存在しない。お金もない。気軽に手出しできない。

 だから運ゲーに目をつけた。やりこみとは別の快楽を刺激して、渇望を満たしてやる。その代わりやりこみはどこかゲームとは別の領域で果たす。

 

 そういうつもりで最近始めたゲームがある。ストーリーもキャラクターもクオリティも良い。運が多分に絡む。努力は報われたり報われなかったりする。楽しい。

 しかし3日目にしてすでに、この程度の運要素はある種の長時間の努力によって克服されるものだということがわかってしまう。また運だけで結果を出すことができないことも。このゲームは適切な努力をしながらかつ運に左右されることで報酬に揺らぎが出るゲームだ。RPGよりはよっぽど現実に近いが、ほとんど障害が存在せず攻略法が広く認知されかんたんにそれにアクセスできる。

 思っていたのとは少し違う様相を呈した。もっとカジュアルでもっと気まぐれな何かを想定していた。

 すでに時間は奪われ始めている。運要素のゆらぎこそあれ基本はやりこみゲームだ。自然と手持ちの札で最大限合理的な動きを探ってプレイするようになる。さて、これで良かったんだろうか。