2021/01/31_ダイナーの主人公vsつくみずの中学生

僕はなんかこう、色々やっている人だ。

絵も描くし

ゲームもするし

アニメも見る。

本を読んだり

noteや

小説も書く。

正直どれもこれも中途半端で、客観的に観ると何がしたいのかわからない。ほんとなんなんだこいつ。

ところで、僕があれこれ手を出すのは、何をやっても「殺される」と思うからだ。別に銃を突きつけられているわけではないのだが、誰にも相手にされなければ、価値がないと見限られ続ければ、社会システムからどんどん外れて死ぬんだろうなという漠然とした感覚がある。若いうちはアルバイトでもなんでもすれば最低限喰いつなげるかも知れないし、まあ役所書類をちゃんと手続きできれば日本にいる限り死なずに済むようには出来ると思う。ただ、そうやって生き残って何になるのだろうか。別に生き残ったって誰も僕を待ってはいないし、必要とされてはいないのだ(必要とされなかったからこうなっているのだ)。そうなったら多分自分は家を空っぽにしてどこかの山奥とか滝とかで勝手に死ぬんだろうなと思う。

僕はもしそういうふうに本当に追い詰められたら、自分のためにやれることはなくなると思う。僕はよく「何をやっても楽しくない」と愚痴をこぼしているし実際そう思う。趣味とか自分のためにやって楽しい、喜ばしいと感じられることはあまりない。僕があれこれやるのはだいたい「俺は死ぬんだ」ということを忘却するためで、死にたくないからだ。

せめて何かできれば、どっかで誰かに引っかかれば、生き残れはしないだろうか。あるいはもっとシンプルに、生きようと死のうと関係なく、自分のために純粋に何かを楽しめはしないだろうか。

そういう事を考えながらあれこれやっている。そういう事を考えながらなので、メンタルが辛くなって定期的に何もしなくなるし、鬱になるし、暗い。正直この自動思考にいいところはなにもない(だからといって代わりになる指針もないわけだが)。

今日、そういう自分が「ダイナー」を見た。

藤原竜也主演の映画。ド派手な色面で、設定も人名もキャラも展開もぶっ飛んでる。正直カナコがなんでボンベロ好きなのかわからん。吊り橋効果か?

ネットで調べるとレビューの星は大体3。あんまり好評ではない。

ただ、この映画を見て損したとか最低だったとかは思わなかった。普通に演出もセットも面白いし、カナコ役の王城ティナも画になっててよかったし、窪田正孝好きだし、テーマソングDAOKOだし、満足度は普通に高い。

「意味わからんかった。意味わからん原作を忠実再現してて意味わからんかった」といいつつ勧めてくれた御学友には「感謝」とLINEしておいた。

ここまでは感性的な話だ。僕がどういう思考や精神の持ち主かはあんまり関係ない。noteにしつつ考えてみたいのは、「死ぬ、死ぬ」と思いながらあれこれ手を出す自分は、「ダイナー」のオオバカナコを見てどう思ったのか。どういうことを感じただろうかということだ。

読者諸兄は、僕とオオバカナコが似たようなものだと思うだろうか。まともに就職せず、ほっておいたら「いらない子」としてそのまま死んでしまうだろうオオバカナコと僕。「死にたくねえ」と思いながら必死にダイナーで働くオオバカナコと、色々手を出す僕。まあ、構図としては確かに似ているかもしれない。けれど正直、「ダイナー」を見て「僕はオオバカナコだ。オオバカナコが「ダイナー」で救われたので、俺も救われた気がする」とはならなかった。

オオバカナコと僕は決定的に違う。オオバカナコは気づいていなかっただけ、やろうとしなかっただけで、料理への適性も動機も経験もあった。その程度(質・量)は問題ではない。重要なのはそうした適正・動機・経験のあるものが料理だけで、都合よくボンベロとかいうとんでもない師匠が出てきたことだ。オオバカナコには最初から救済ルートが用意されている。ボンベロと巡り合う豪運も持ち合わせた(元殺し屋の凄腕シェフのもとで働くことになるなんて誰が経験するんだ)。その機会をつかめる蓄え(適正・動機・経験)もあった。

僕にはそういうのはない。僕は死にたくないので色々手を伸ばしてのたうち回っているが、根本的には別にどれにも適正はない。動機もない。僕は小説を書いたり絵を書いたりする行為自体からは忘却という一時的な救済を得られるが、小説に描きたい内容も絵に描きたい内容も元来持ち合わせてはいない。別にやりたいことはなにもないのだがやることでしか安心できないのだ。ここがオオバカナコとは決定的に違う。あの女はなんだかんだ言って店の開店資金と尊敬できるシェフさえ存在すれば勝手にシェフになったのだ。あの女にはその動機があった。ただトラウマからそのあたりの認識が多少歪んでいただけだ。機会があればシェフになったオオバカナコと、根本的には何もしたくない僕は別物だ。

多分、オオバカナコみたいな人は多いだろうし、僕みたいな人も多いと思う。けどもっと多そうなのは、本当は僕みたいに別に何もしたくないのだけれど、自分はオオバカナコだと思いこんで(しまって)いる人ではないだろうか。多くのフィクションが、ダイナーのオオバカナコみたいな救済のされ方をする。自分の「やりたいこと・やりたかったこと」を見つけて、成功するという救済展開。人間はフィクションで与えられる救済のことを、自分を救済してくれるものと思ってしまうもの(だと僕は思っている)なので、架空の救済事例をよく分析もせずに自分のことだと思い込み、自己理解を歪めてしまう。

オオバカナコの救済の中での、シェフとしての(小さな)成功は言ってしまえば資本主義社会の内部での経済的成功・経済的自立だ。受動的労働者(正社員は最初から闘争したのでバイト)となることをやめ、ボンベロからもらった元手で経済的自立を果たし裁量権と言う名の精神安定を獲得する。ボンベロが「追ってくるものから逃げるな。そいつは逃げれば逃げるほど追ってくる」と言ったときに「追ってくるもの」が意味していたのは資本主義社会だ。(なんか最近の映画こういうのが多いと思う。「アド・アストラ」もそうだった。主人公の親父が遠宇宙を目指したのも資本主義の柵から逃れるため。かつて月は資本主義の外部だったが「アド・アストラ」世界では月すら資本主義の舞台だ(一瞬映る月世界の背景を見よ。積み上げられた鋼鉄の摩天楼。工業と交通。惑星間運行”サービス”)。主人公が親父にたどり着くことでその目論見は結局失敗に終わることになる。いずれにせよ親父は資本主義から外れて完全に精神がイッており、船員もその修行的精神負荷に耐えきれず死んでいる)。

資本主義は見えないところにいる。オオバカナコの成功は、そういう見えない資本主義の内部で完結する成功だった。では、あなたのメンタリティはどうなのだろうか。本当にオオバカナコのように「やりたいこと」があって、たまたまそれが叶えられないだけなのだろうか。それとも僕のように、別に何もしたくないが、資本主義の内部に居続ければ死んでしまうし、死にたくないからあくせくしているのだろうか。

君だって後者かもしれない。本当に望んでいるのはオオバカナコ的救済ではなく、tkmiz的中学生概念(資本主義や就労・生活資金とは無縁で、人間の中に存在しさえすれば、誰かが隣にいてさえすればいい。別に何を成したいでもなく、むしろなにもしないでいたい)への変身かもしれない。

一度胸に手を当てて「ダイナー」でも見てみるといい。
窪田正孝の顔がいいので、少なくとも損はしないはずだ。

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