2021/02/17_ぜつぼう

 人間の絶望は、理想と現実のギャップが大きいほどに強くなるという。
 自分はここ一週間絶望状態、軽い鬱状態であった。絶望はよくない。なぜなら、絶望状態は裏ボスが即死してしまうくらい体に悪いからだ。冗談だ。でもあまり絶望は好ましくない。少なくとも僕は絶望となかよくでき(てい)ない。
 ここ先週からフッサールの書簡を読んでいたのだが、既知の情報を交えて色々と構想が膨らんで卒論の序文も目次も書けそうになった頃(気圧の変化とか生理的な問題もあるだろうが)途端に調子を崩して勉強できなくなった。先週までしばらくの間、結構堅実に(少なくとも午前中は毎日)勉強していたのだけれど、それが嘘だったかのように。
 結局月曜日から今日まで3日間何も出来ずに潰してしまった。こういう時は気分も最悪だし、後悔とか屈辱とかありとあらゆる自己否定的な感情の大博覧会になるだけじゃなく、あらゆることができなくなる。まともに立っているのも辛いし、外なんか出れたものではない。体中の筋肉が言うことを効かなくなって眠ってしまったみたいに、あらゆる動きが緩慢に、あらゆる状態がだるくなる。何をしても辛い。とにかく辛い。辛い辛い辛い。そういうわけでまともに遊んだり映像を見たりして気晴らしができるわけでもなく、ただただ苦痛が続く。死にたくなるわな。そりゃ。
 一応気を使って、毎日風呂にしっかり入って、12持には寝るようにして、夜遅く電子機器を触るのも控えて、部屋を掃除して……。今日の午前中と、いま直近1時間ぐらいは楽になった(ただ散歩できるほどの元気はないかも。かろうじて洗濯物は干したけど)。こんなんで大丈夫だろうか。不安だ。
 さて、冷静になったところで気がついたのだが、書簡だけで目次と序文が描けてしまう想像力が絶望の直接の原因だったように思う。想像力の中ではすでに卒論は完成しているのだが、そのために必要な文献の調査と整序が膨大で、しかも理想的な文献調査の範囲ほどの調査ができていない(そもそも自分の関心にピタリ来る先行研究すら見当がついていない。少なくとも日本において少ないのは確かだろうが皆無ということはないと思うのだが)。そういうわけで、描かれた青写真と必要な作業量に比して、実際の進行度合いが少なすぎることに(潜在的、無意識的に)絶望してしまったらしい。正直頭で理解してもこの状況に関しては絶望せずには居られない。自分は勉強が得意ではない。
 救いはない。慈悲もない。自分で勝手に助かるだけだ。理想と現実のギャップはいつまでも存在する。想像力を止めて鈍感になるのは簡単ではないし、持続しない。だから多分、ぜつぼうとなかよくするしかない。ああ、またいらっしゃいましたか。こんにちはぜつぼう。こんばんはぜつぼう。願わくばさようならぜつぼう。