2021/02/26_フィクションとして生きる

最近また小説を書きました。短編です。

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小説を書くということがどういうことなのか、僕はまだよくわかってない。

小説を書き始めたのは去年だ。時間があるのでやったことのない創作をしてみよう、ぐらいの気持ちで始めた。

たとえば高校生から小説を書いている人とか、大学生とか社会人を経て文芸に関する吸収が閾値を超えてバーっと書き出す人とか、そういう人たちと僕とは違う。ぜんぜん違う。彼らが書かずにはいられなくて書いている人だとしたら、僕は書くものもないのに書きたいと思ってゆっくり試行錯誤してる人だ。小説で表現したいことは(今のところ)ないが、小説は作ってみたい。不純だと言われるかもしれないが嘘をつくよりは立派だと思う。それに多少は勉強してみようという誠実さもある。(少し前から最近まで伊藤計劃を勉強してたりするのもそういう事。)

僕は小説という媒体がよくわからない。小説という思考法がわかってない。何がどうしたら物語を語りだしたり、何万文字もシーンを描写できるのだろうか。正直さっぱりだ。けど別にそれに焦りは感じない。

僕は小説家を目指しているわけではないし、得意だった自負もない。背負ってるものがなにもないから、恐ろしく気楽にやらせてもらっている。

そういう気楽な実践の中で、小説という存在のことがわかってくると良いなと思っている。

そんなこんなで最後に書いたのが上の短編。一応最新話の「小説家になろう」ということになる。多分、ナチュラルボーン物書きは自作紹介とか自作解釈とかをやりたがらないと思うし、やっちゃいけない気さえするのだけど、僕は運良く(運悪く?)そういう文脈とはハズレているので、ちょっと自己解体をしてみようと思う。(まえにも似たようなことやったな。

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小説家になろう」は、狂った男に銃を突きつけられた少女が記録小説を書かされる話だ。高高度核爆発によるEMP(電磁パルス)によって街中の電子機器が故障し、街中大混乱。あげく情動の生理機能に作用する催涙弾が大量投下され、男は激しい希死念慮に襲われる。

狂った男は、人生の最後に生きた証を残すため、銃で少女を脅迫して手記を残させる。EMP(と思われる、実際のところはわからない)のせいでカメラやビデオなどの電子的記録は不可能。催涙弾の影響で痙攣する手では手記は書けない。初対面の少女を脅迫する他なかったのだ。(多分)

で、これ何の話?

……ということだが、今回はここでちょっといつもの日記に戻ってくる。別に解体を放棄したわけではない。多少実存的な感覚を文脈として導入しないと「よくわからん」以外のなんの感想もないのは当たり前の駄作なのだ。

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フィクションとして生きたい。

資本主義とか種の保存とか、そういう大きい物語の文脈をガン無視してフィクションとして生きたい。

大きな物語消えてなどいない。むしろ大きすぎてほとんどの人が見えなくなったり忘れたりしているだけだ。誰もが購買し、誰もが交配する。ここで交配はヘテロの生殖だけでを意味するのではない。もっと広義に自分という種を保存するためのあらゆる複製とそのための物質的な交雑を意味する。

誰もが購買する。いくら引きこもりと言えど食ったり風呂入ったり電気つけたりすれば金がかかる。インドア趣味は金がかからないような気がするが、ゲームは一本5千円前後するし、ハードは2万前後、アニメのサブスクは年間3千円前後で済むが、グッズを集め始めるときりがない。なんならオタクは昨今の消費文化を牽引する存在でもある。(これとか。もっと良い論文あると思うけど。)山にこもって自給自足でもするのでない限り、資本活動なしに生きていくことは出来ない。娯楽を享受するならなおさらだ。

誰もが交配する。たいがいが性欲があるし、性欲がなくとも自己保存欲求のない人間というのはそう居ないだろう。刃物を突きつけられて怖がらずにはいられない、という極限状態の話より以上に、人間何もせずにはいられず、何も残さずにはいられないものだと思う。(伊藤計劃がそうだった。最近彼のブログや小説など読んでいたので尚更そう思うのかもしれん。)人は孤独にも虚無にも耐えられない。なにかせずにはいられず、なにかするなら誰かと一緒でいたいと思う。誰かが記憶して伝えてくれるのでなければ、これからする何かが永遠に(語り継がれるものに)なることは絶対にないからだ。少なくともそうした可能性に開かれたものが残せないと、日々生み出せないと不安になってしまう。(自粛生活もあって、これは痛感する)

購買と交配。そのどちらも逃れられない。私たちが社会にある以上、私たちが有限の命であるところの人間である以上。

けれどこんな嫌な閉塞感、今までずっと味わってきただろうか。

僕はそうではなかった。少なくとも高校生の間は、お小遣いとHRと友達に守られて、なんの憂慮も切迫もなしに自由な放課後を過ごした。それこそ青春小説や4コマ漫画みたいな、あけすけで無軌道で有無を言わさぬ自由。

購買と交雑の文脈をガン無視してフィクションとして生きたい。フィクションのように自由に生きたい。

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小説家になろう」はそんな自由を夢見ないフィクションだ。少女が4コマ漫画みたいな放課後を生きることはないだろう。情報は混乱している。街の殆どが甚大な被害を被った。そしておそらく、もし復興があるとすれば、大量の資金投入による「人道的援助」だけだ。ここでもまだ資本主義は生きている。あらゆる労働が、あらゆる道徳的振る舞いが、計量的に換金可能な世界に、未だどっぷりと浸かっている。少女が生き続けるなら彼女はそうした世界と対面することになる。何も持たない彼女はおそらく時間と存在を搾取されることになってしまうだろう。購買は続く。

それに少女はいずれにせよ健全に生きられるかどうかもわからない。彼女の体=資本は、復興しうる世界で、換金されるかもしれない。しかし復興しない(資本主義システムが崩壊して交換が成り立たない)世界になっても、彼女の体は、交雑のための、資本で有り続ける。拳銃を突きつけた男は少女を直接犯したりはしなかったが、今後そういう目に遭わないとも限らない。それにそもそも、拳銃の男は少女を自己保存の道具として(小説を書かせるというかたちで)使用したのだ。そういう意味では彼女はすでに不健全に取り扱われてしまった。交配は続く。

もっと絶望的なのは、彼女は書かされたことによって自らも書く主体へと変化してしまったということだ。不可逆の変化。交雑を必要としない無垢から、交雑を要求する息苦しい主体への変化。

小説家になろう」において小説家になることは、自らを自己保存の絶え間ない欲求に駆られる書き手に不可逆的に作り変えてしまうことを意味する。

誰もが交配する。そして荒廃する。そのことに抗うことは出来ない。

これはまさに男の述懐に似ている。

「けど、確かなのは、何か残さずには居られないってことだ。自分の爪痕とか、そういうものを。俺たちは、人間は、肉体は永遠には生きられない。だから何か永遠なものがいるんだ。それがもし、もう使い古された話をなぞることになっても、他人の永遠に奉仕する結果になってもだ。そういう性に俺は忠実に生きる。小さいときからそうだった。それが俺だ」

小説家になろう」はそういう話だ。

あんまり風呂焚きの待ち時間に読むものではないかもしれない。

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以上が一応の自己解体、自作小説の自作解釈だ。

自分で小説を書いておいて、自分で批評するという奇妙なことをやってみた。やってる人間としては楽しい。

本稿は読者諸兄のいい暇つぶしになっただろうか。そうか良かった。

これで終わってもキリは良いのだが……しかしどうだろう。解釈が一意な小説というのは面白みにかけるのではないか。いくつか自己解体を解体して意味の氾濫を起こしてみよう。

どんな駄文でも、解釈の余地があればこれだけ遊べる(し読者も同じように遊ぶことが出来る)ということが示せれば嬉しい。

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まず購買についてだが、男の言及した噂が本当なら資本主義社会は解体するかもしれない。そうじゃないかもしれない。

ひどい噂ばかりだ。色んな国でここと同じ有様だってのがみんなの話だ。世界中被爆大国だってこと。そんな世界でどんな人類が生き残るって言うんだろうな。

もし仮にどんな人類も生き残らず、世界が廃墟となれば、それこそ『少女終末旅行』のように購買とは無縁の探索と収集の世界が訪れるかもしれない。

ただもし仮に世界中被爆したとしても、技術があらゆる放射性被害から人間を守れるようになるかもしれない。そうなった場合は『ハーモニー』みたいな最悪の「健康」社会になるかもしれない。あるいはもっと中途半端に『電気羊』みたいな消費社会になるかもしれない。この場合、購買は続く。

個人的には『少女終末旅行』みたいな収集と探索の世界で、それこそチトとユーリみたいにのほほんと生きてくれたら(生きられたら)いいのにと思うのだが。そううまくは行かないかもしれない。

次に男の行動について

これは記録だ。ビデオカメラとか写真とか日記とか、そういうのと同じように、俺はこの女を脅して記録を残す。もし読者がいるなら、これは異常なことだと思うだろうか。あるいは理解してくれるだろうか。いまここは、ある時代や立場からすれば異常なことが普通になっている。いま大事なことは本質的なことだけで、つまり、俺が女を、しかも子供を拳銃で脅して何かを書かせたとしても、これは記録なのだということだけが重要で意味があるようなところに、いまいる。
これまでの人生で体験したことのない強烈な希死念慮に襲われてる。催涙弾が内蔵にききすぎたんだな。悪い方に。まあ、こいつを催涙弾と呼んでいいかどうかもわからんが。とにかくそのうち俺は死ぬ。内臓の暴走についていけない。死ぬ。今すぐ死にそうだ。かろうじて、この少女に拳銃を向けることで奇妙な均衡が保たれてる。理性が、少女を撃たないよう歯止めをかける。死への欲動は、拳銃が少女に向けている。

上記引用2箇所で、男が少女を脅迫して手記を残させた経緯が伺える。ビデオでも写真でもなく手記なのはEMP(?)のせいだ。そして少女を脅しているのはおそらく拳銃を彼女に向けることでしか希死念慮を緩和できないからだ。つまりそれ以外の状態になると、例えば自分で鉛筆を持って手記を書こうとすると、すぐさま自殺してしまうのだろう(そのぐらいの希死念慮)。

しかし奇妙なことがある。

男の人が、適当な瓦礫を積み上げて机を作ってくれました。

という少女の描写だ。これが本当なら、両手はふさがっている。男は拳銃を持っていないことになるのではないか。つまり少女に拳銃を向けてはいないが、自殺しなかったタイミングが存在する(しかも手記を書かせる意図があるので手記を残す動機となった希死念慮は存在する)ということだ。

ここから先の解釈は小説の全貌を大きく変えてしまうかもしれない。

いくつか解釈があり得ると思う。

解釈1:

例えば少女が言及する男というのは実は二人いて、拳銃自殺したがっている男と、少女とも男とも完全に中立(かつ人物紹介描写に値しない)の謎の男の二人がいるというケースだ。

この小説、実は実際のEMPでは考えられないような電子機器の使用不可能状態になっており、私たちが想像する科学や軍事では小説の中で起こった出来事を正しく理解できない可能性がある。つまり、小説の中では現在(それもごく最近)の日付が使われているが、まったく別の科学の発展を果たした平行世界であることは想像に難くなく、であれば人間に奉仕するアンドロイドがいてもおかしくはないのだ。

要するに、拳銃の男と少女の他に、両者に完全に中立で描写するに値しない男性型アンドロイドが存在したかもしれないということだ。

(だからどうやねん。)

解釈2:

次に、ごくシンプルに、男は足を使って、瓦礫を蹴り上げるなどして机もどきを用意したという穏当な解釈もありえよう。この場合は動作に対して小説的には描写が不自然で不適切ということになるが、「小説家になろう」においては少女が描写したという事になっているから、むしろこれで正しいとも言えるだろう。

解釈3:

あるいはこんな解釈も可能だ。男がほとんどデタラメを吹いており、実際には少女を脅して手記を書かせるという強行に、論理的な理由は存在しないという解釈だ。男はこんな事を言っている。

「あんた死んだ彼女に似てるよ。きれいだ。俺がもっとガキだったら、拳銃突きつけて書かせたりセずに犯してたかもな」

拳銃を突きつけて少女を犯す。それがこの男の本来の目的だったのかもしれない。しかしなんらかの(死んだ彼女?なけなしのモラル?)理由でそうした目論見を取りやめて、別の行動に、拳銃を突きつけて小説を書かせるという奇妙な行動に移ったのかもしれない。

おそらくこれら解釈のうちでも解釈3はラディカルだが、比較的物語を矛盾なく納得の行く仕方で読めるかもしれない。

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探せば謎はまだあるだろうし、男がどこまで嘘をついていないか、どこまで正しい情報に基づいて言動しているかわからないのもあって、解釈の余地は多分にあるだろう。それに、小説を起点にしていろんな可能性に思いを馳せることが出来る。

僕は小説という媒体がよくわからない。小説という思考法がわかってない。

小説を書くということがどういうことなのか、僕はまだよくわかってない。

書き手としての僕は未熟ではあるが、どんな駄文であれ小説は小説であり、そうである以上ある一定の機能は果たしうるはずだ。そして、小説一般の読者として自分は多少、小説の機能に詳しいつもりでいる。

だからこうして自前の小説を使って、小説で遊んでみせた。

小説には場所性がある。それは僕らが読書をするときに、その場所の匂いや温度を感じるということでもあるが、それだけでなく、その場所を読んで知ることを通して、その場所以上のところに行けるということでもある。小説は無限の可読性に開かれている。だからこそ(読了がないと知って誤読を恐れ過ぎず進むなら)僕らは必ず自分たちの向かうべき場所へ行くことが出来る。それは自分らの実存であったり快楽であったり、自分たちの道=文脈を持ち込むことによって、小説が可読性を開くからだ。僕らは小説を通して、文字をくぐり抜けて、僕らの道の先を少しだけ見通したり出来るのだ。

そんな楽しみの一端を味わっていただけたら大満足である。

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僕らはフィクションとして生きよう。

あらゆる生活の可読性を自由にアレンジして。

大きな物語を捻じ曲げるほどに。