2021/04/15

最近もう感情が動かない。嬉しいとか楽しいとかいう気持ちが真っ直ぐに感じられなくなって、クリーム色の膜が張られたように意味が一枚、「これはまやかしに過ぎない」と注釈が付け加えられる。

ショーペンハウアーパスカルが決定的な仕方で世界の見えを変えてしまった。僕には神を信仰して死後救われるか、意志の否定へたどり着いて涅槃を迎えるか、苦しいまやかしの娯楽でごまかされた生活かしかないと思われ、これは決定的な事柄になってしまった。もう何年もこれら以外のオプションを考えられないでいる。

僕はその決定的な影響力と単純さのためにショーペンハウアーパスカルからできるだけ逃れて別の哲学を目指して勉強していたが、逃げれば逃げるほどその決定力が絶大だったことが実感された。仕方がないので先月パスカルを読み返したりしたが、その時に誤読と誤解がはっきりして、多少救われたりなどした(同時に行き詰まりも感じた)。自分はパスカル実存主義的側面を強く意識しすぎたせいで、パスカルの言う気晴らし(娯楽)が死への実存という真実を見えなくする徹底的に悪いものだというように読んでいた。パスカルは実存の真実から神の救済の賭けへと話を持っていきたいので、もちろん気晴らしから目覚めて実存に気づくことを推奨しはするのだが、同時に気晴らしを取り上げられた人間が駄目になってしまうことも確かに認めている。自分はここを見逃していたのでどんな娯楽もどんな生活も右左なく罪悪感を伴うものと感じられていた。パスカルの提示する信仰はちょうどジェイムズの『宗教的経験の諸相』でいう二度生まれの改心に該当する。ただ確かにパスカルは絶望状態から信仰によって救済されるルートをメインに描くが、ジェイムズの言う一度生まれの救済ルートを否定するような立場でもないように思われる。パスカルは実存に目覚めて絶望することを承知しているし、気晴らしによって人が救われてあることや王であることの素晴らしさも同時に理解しているように見えるからだ。

パスカルに娯楽肯定の余地はあるかもしれない。ニーチェは研究していないので安易なことは言えないが、ショーペンハウアーにも意志の肯定というルートが確かに存在する(と聞いているし想定しうる)。ではそのように生きればよいではないか。というわけにいかない。パスカルは気晴らしを巧みにも、子供が自分の顔に泥を塗って自分で怖がったり面白がったりするようなものだと言った。気晴らしには一種の自己暗示や忘却が必要になる。実際には自明の事実しか存在せずまた「死へ一歩ずつ近づいている」という意味すらあるのにそれらを忘れて、初めてある娯楽を楽しむことが出来る。ルーレットに存在するのは確率と色面の変化。カード遊びにあるのは操作と相応のカードの移動。たったそれだけの事実になにか大事なことがあるかのように一喜一憂する。遊ぶときにはこの事実を忘れなければならない。しかし自分にはそれが出来ない。虚構の力を感じられない。ただつまらない事実だけがある。一歩一歩死につつある。ただ何も私は意味を成さないまま。むしろ疎まれ嫌われリソースを無駄にすり減らして肥やしにもならないゴミのまま。誰かのストレスのはけ口にさえされないまま。ただそうした事実に対する基底音のような悲しみと苦痛がある。

ではなぜパスカルに習って信仰しないのか。自分は二度生まれになれないからだ。神を信仰できないからだ。自分はあらゆる気晴らしがまやかしだと知ってしまっているから、神さえもそうであると、救われることを信じた賭けも気晴らしの一つだと思えてくる。思えたものはどうしようもない。

涅槃はどうか。逆に問うがそれまでの苦痛をどうしろというのか。意志の否定は自殺ではない。自殺には意志が働くから意志の肯定を含んでいて、意志の否定ではない。結局カームな自然死が意志の否定ということになる。生に執着しなくなること。しかし衝動志向性がある以上、自律的な欲求を完全になくすことは簡単ではないだろう。まして実家ぐらしでは無理である。一人暮らしなら、静かに眠り続ければ、いつか衰弱死出来るかもしれないが、実家でそういうわけに行かない。

ただいまもう、こうしたことばかり頭をよぎって、夜になるととてもつらいので非常に死にたくなる。また日中は非常に疲れている。そしてまた異常に寝る。自分は今飛び降りが痛そうで怖いということと夜になるとどうしても眠くなるということによってなんとか生きている。だが、何が出来るでも何を出来るでもない、また何もしたくないが何も出来ないことは恥ずかしく駄目なことなのだと思えて辛い、そういう毎日である。こんなものを生きているなどとは呼びたくない。

これは筆者にも読者にも明らかだが、ここまでの近況にはいくつかの固定観念が含まれている。それも「意志に意志せよという」矛盾を含んだタイプの観念、いわゆる強迫観念である。何事か役に立たねばならないという脅迫。何事か成し遂げねばならないという脅迫。そしてまたこれらは全く自前のものではないと感じている(※1)。

惨めなことに、あまりにも状態がひどいので親に心配されて説教などされたのだが、そこで言われたのは主に他人からの影響をもっと受けるべきだ、少なくともその機会を持つべきだということだった。これに対する自分の反応は苦痛で、どうも自分は今自閉傾向がとてつもなく高くなっており、誰とも会いたくないし、誰にも何も言われたくないと思っていることがはっきりした。理由は不明だが他人の言葉に過敏に反応して想像以上に、不必要に傷ついてしまう状態が長く続いている。あまりこういう状態で無理に他人にあっても良くないと思うので、出来る限り説教は真に受けず引きこもらせていただこうと思うのだが、確かに新たな影響を受けるという局面が全然なかったのは事実だ。価値観が外から変わるような、上述のオプションに縛られない価値観にさらされるような経験をするべきなのかもしれない。

今日はネットで人のインタビューなどを漁りながら、そのようなことを考え、できるだけ別の価値体系を目指すよう心がけた。今のところ成果は五分である。妥協しうる生活態度のオプションは見出し得たが、しかし実行にあたって上述のオプション体系が頭をよぎり続けることを避けられないような気もしている。結局、自分で塗った泥を泥と忘れて、鏡を鏡と忘れて鏡を見ない限り何事も面白がれはしないのだと思う。そして自分はうまく忘れることが到底できそうにない。

せめて誰か共に苦しんでほしい。

※1 ここにはショーペンハウアーの他者論に関して拡張した議論を持ち込む余地があると思っている。他人から眼差されるという視点が、少なくとも『意志と表象としての世界』の中ではショーペンハウアーには欠けていて、これはショーペンハウアーにべき論が事実上存在しないこととパラレルだと思われる。