2021/04/22

「よふかしのうた」を読んでいた。

深夜だけ読めるようにするというプロモーションはすごくうまいと思う。「よふかしのうた」はファンタジーもサスペンスも恋愛もコメディも含まれてるジャンル不定の夜遊び漫画だ。中途半端な広告を打つよりは実際に読ませるほうが読者は作品に惹かれて購買意欲も上がるだろう。しかも、深夜を舞台にした本作を日中読むのと深夜読むのでは受ける印象が全く違う。静かな夜、寝なきゃいけない時間に起きて漫画を読む静謐背徳感恍惚etc。

多分だが今夜が全話無料で読む最後の機会だろう。せっかくだかこの後読むのがいい。なんあら今すぐ読んでも構わない。

以下「よふかしのうた」のネタバレを気にせず話す。

気をつけて

 

 

主人公の夜守コウは恋愛がわからない。あれだけナズナといちゃついておいてもまだ恋心は芽生えない(欲情してるだけ)。彼は不登校だ。理由はめんどくさくなったから。めんどくさくなった具体的なきっかけは、友達付き合いとして努力してきたコミュニケーションが恋愛の文脈に(不本意にも)回収されていらぬそしりを受けたこと。コウはメンヘラさん関連のエピソード以降至るところで、何でもかんでも恋愛に結び付けられては困ると愚痴る。普通の中学生の台詞なら恋愛への過剰な期待への裏返しとか非モテ論とかに回収されてしまいそうだが、実際コウは恋をしていない(吸血鬼になれない)しどちらかと言えばモテる。『闘争領域の拡大』と絡めて言えばこれは次のようになる。コウは社会的コミュニケーションの闘争領域へと歩みだした。暗い性格や適性のなさを押し切って努力してである。しかし告白を断ったことをきっかけに性の闘争領域という別のヒエラルキーシステムに直面する。困惑する。そして闘争領域から逃走する。逃げた先は夜だ。一般的な社会通念や規範意識から開放され、夜守コウは自由を獲得する。しかしまた彼は別の闘争領域へと突入していくかのように見える。一見すれば困惑し回避したはずの恋愛に改めて向き直ることを要求され、それを進んで受け入れたかのように見える。しかしながら、そこにいるのは実質コウとナズナの二人だけである。その他の吸血鬼たちや探偵、幼馴染も登場はするが、コウの恋愛的な関心はナズナだけに向けれられており、周囲の人間は基本的にそこに割り込まない。ここには階級システムが存在しない。よってこの恋愛は闘争領域ではない。であれば、コウが恋をするのはますます難しそうだ。単なる性的な欲情は恋心としてカウントされない。また階級システムが存在しないので、コミュニケーションによる闘争とその勝利(あるいは闘争の一時的平衡としての平和)として恋愛があるわけでもない。それではいったいコウが要求されている恋とは何なのだろうか。

僕らは簡単にこの問に行き詰まってしまうように思う。闘争領域としての恋愛を僕らの世代は食わず嫌いのまま避けたがる。あるいはコウのような意図せぬ巻き添えのようなものをくらって逃走する人もいるだろう。いずれにせよ壊れやすくお互い傷つけやすく、なくても割となんとかなる恋愛を(特に性的社会階級的欲求なしに)求める人は少ないと思う。結果予め恋愛感情を破棄すると宣言して構築される異性間の友情関係が多く見られるようになる(異性愛を想定してはいるがこれを唯一化する意図はない。同性愛であろうともこうした関係は想定できるが記述がいささか難しいので例として取り扱わないのみである)。「よふかしのうた」でのメンヘラさんのケースがそれである。結局そういうのはどこかで決壊して失敗に終わってしまうことが多いのだが。それでも友情を破ってしまうのはたいがい性欲か、社会的な地位の問題ではないだろうか。思春期の男女とか、20代を過ぎた組はこういう局面を迎えやすいように思う。やっぱり僕らは恋を知らない。性欲も社会的闘争も排除された恋愛を僕らはうまく想定できない。

考えうる一つのヒントは『闘争領域の拡大』でウェルベックが言及した愛に関する考察だ。曰く僕ら世代はある相手の唯一性というものをあまり容易に信じることができなくなってしまっている。キリスト教的な一夫一妻の教義的制約や家族ぐるみの婚姻や見合い婚のシステムがないから、僕らの恋愛観はほとんど「売女的」になっているのだという。そこでは性的な魅力や資産といった指標に基づいた性的パートナー交換の市場が存在し、もちろんそのために階級システムが存在する。ある男女は多くの人間と交渉を持つが、或る男女は全く持たないということが起こる。そこではあらゆるペアが交換可能であり、組相手に唯一性は存在しない。こうなると、いわゆる愛というのは考えられなくなってくる(まさに愛がこの社会には不足しているのに)。

なるほど理屈はもっともらしい。さもありなん。しかし夜守コウはナズナに対して唯一性を認めているように思う。他の吸血鬼たちの誘惑にコウは全く関心を示さない。では愛の条件は満たすのではないか。であれば彼は吸血鬼になって叱るべきである……しかしそうはなっていない。

恐らくだが、ここには唯一性を付与する相手(この場合ナズナ)に対する関心の程度が問題になるのではなかろうか。コウのリアクションは、他の吸血鬼には関心がないが、ナズナはそれよりいい、というような比較的消極的なものにも見える(もちろん口調はもう少し説得的になっているだろうが)。であれば今後のコウ課題はナズナに対して人一倍関心を持つことということになるのだろう。同様にまたここまでよくわからなかった恋愛の要件も(少なくとも1つ)わかったことになる。他人に特別の関心を示すこと。

 

しかしどうだろう。これは友情と一体何が違うのだろうか。

 

夜中に考えすぎるとドツボにはまる。こういうのは程々にしておくのが良かろう。読者もなにか考えついたらコメントを残していってくれると嬉しい。理屈っぽいことに限らず、個人的な体験でも何でも良い。面白がって読む。

一応読者にだけ喋らせるのはフェアじゃないと思うのでたまたま思い出した昔の話をしておこう。

高校生の頃好きな女の子がいた。というとあまりにもわかりやすいが、自分はその人と付き合いたいとか性的な関係を持ちたちとか性的闘争における社会的優位を獲得したいとか感じたわけではない。どちらかというと友だちになりたかった(今でいうと推しに近いのかもしれない)。その人はとにかく当時の自分にとって多くの謎を持っていた。とにかく楽しそうに話すし比較的誰とでも話すが、自己開示をすることがあまりない。そういう話をしたがらないと言うよりはとにかく他人に話させるのが恐ろしく上手かったのだと思う。何度か話すことがあったものの彼女のことは殆どわからなかった。それに開示される情報にちょっと驚かされたりする。全くそんな素振りを見せないのだがなにやらちゃんとした文化資本があったらしい。学校ではおくびにも出さないので最初話を聞いた時はゾッとしたのを覚えている。もっと早く仲良くなっていたら、自分も多少の教養が身についたんじゃなかろうかと思ったりするが無益な想像だ。そうなることは多分なかっただろう。自分が自分に自信がなかったことや彼女が今まで全く交流したことのないタイプの人だったこともあるが、性別の壁みたいなものはあったような気がする。それは単に思春期男子高校生だった僕が意識しすぎただけのことかもしれないが、どういうスタンスどういう距離感で交流すればいいのか全くわからなかった。ちょっと踏み外せば恋愛の文脈に回収されてキモくなってしまうような気がした。結局海遊館の水槽ガラス程度の分厚い壁があったままだったと思う。高校を卒業して全く疎遠になった。当たり障りのない連絡を交わしたこともあるが、それきりである。読者はこれを見て僕が望んでいたのがコイと思うだろうか友情と思うだろうか。その境界はあらゆる意味であまりに曖昧だと思う。