2021/07/13

 noteで投稿していた日記記事をこちらに移した。試験的にではあるがしばらくこっちで日記を書くつもり。

 最後の日記投稿が4月なのにびっくりしている。2ヶ月以上書いてない。精神衛生のためにも執筆のチューニングのためにも何でもいいから書いたほうがいい気がしている。嘘でも書かないと書くってことができなくなってくるから。

 最近読むのも書くのもつらい。6月末に完全にダウンして二週間ほど天井を眺めて過ごして、7月最初はしばらく頑張ったが、ここ3日ぐらい頑張れてない。

 

 はてなに場所を移したのは記事一つずつのボリュームを下げるためだ。

 noteだと書きすぎるし、時系列関係なくPVを稼ぐから書いたものがタイムリーじゃなくなっても残り続ける。

 もっと、書いたら読まれた時点で消えちゃうほうがいい。

2021/04/22

「よふかしのうた」を読んでいた。

深夜だけ読めるようにするというプロモーションはすごくうまいと思う。「よふかしのうた」はファンタジーもサスペンスも恋愛もコメディも含まれてるジャンル不定の夜遊び漫画だ。中途半端な広告を打つよりは実際に読ませるほうが読者は作品に惹かれて購買意欲も上がるだろう。しかも、深夜を舞台にした本作を日中読むのと深夜読むのでは受ける印象が全く違う。静かな夜、寝なきゃいけない時間に起きて漫画を読む静謐背徳感恍惚etc。

多分だが今夜が全話無料で読む最後の機会だろう。せっかくだかこの後読むのがいい。なんあら今すぐ読んでも構わない。

以下「よふかしのうた」のネタバレを気にせず話す。

気をつけて

 

 

主人公の夜守コウは恋愛がわからない。あれだけナズナといちゃついておいてもまだ恋心は芽生えない(欲情してるだけ)。彼は不登校だ。理由はめんどくさくなったから。めんどくさくなった具体的なきっかけは、友達付き合いとして努力してきたコミュニケーションが恋愛の文脈に(不本意にも)回収されていらぬそしりを受けたこと。コウはメンヘラさん関連のエピソード以降至るところで、何でもかんでも恋愛に結び付けられては困ると愚痴る。普通の中学生の台詞なら恋愛への過剰な期待への裏返しとか非モテ論とかに回収されてしまいそうだが、実際コウは恋をしていない(吸血鬼になれない)しどちらかと言えばモテる。『闘争領域の拡大』と絡めて言えばこれは次のようになる。コウは社会的コミュニケーションの闘争領域へと歩みだした。暗い性格や適性のなさを押し切って努力してである。しかし告白を断ったことをきっかけに性の闘争領域という別のヒエラルキーシステムに直面する。困惑する。そして闘争領域から逃走する。逃げた先は夜だ。一般的な社会通念や規範意識から開放され、夜守コウは自由を獲得する。しかしまた彼は別の闘争領域へと突入していくかのように見える。一見すれば困惑し回避したはずの恋愛に改めて向き直ることを要求され、それを進んで受け入れたかのように見える。しかしながら、そこにいるのは実質コウとナズナの二人だけである。その他の吸血鬼たちや探偵、幼馴染も登場はするが、コウの恋愛的な関心はナズナだけに向けれられており、周囲の人間は基本的にそこに割り込まない。ここには階級システムが存在しない。よってこの恋愛は闘争領域ではない。であれば、コウが恋をするのはますます難しそうだ。単なる性的な欲情は恋心としてカウントされない。また階級システムが存在しないので、コミュニケーションによる闘争とその勝利(あるいは闘争の一時的平衡としての平和)として恋愛があるわけでもない。それではいったいコウが要求されている恋とは何なのだろうか。

僕らは簡単にこの問に行き詰まってしまうように思う。闘争領域としての恋愛を僕らの世代は食わず嫌いのまま避けたがる。あるいはコウのような意図せぬ巻き添えのようなものをくらって逃走する人もいるだろう。いずれにせよ壊れやすくお互い傷つけやすく、なくても割となんとかなる恋愛を(特に性的社会階級的欲求なしに)求める人は少ないと思う。結果予め恋愛感情を破棄すると宣言して構築される異性間の友情関係が多く見られるようになる(異性愛を想定してはいるがこれを唯一化する意図はない。同性愛であろうともこうした関係は想定できるが記述がいささか難しいので例として取り扱わないのみである)。「よふかしのうた」でのメンヘラさんのケースがそれである。結局そういうのはどこかで決壊して失敗に終わってしまうことが多いのだが。それでも友情を破ってしまうのはたいがい性欲か、社会的な地位の問題ではないだろうか。思春期の男女とか、20代を過ぎた組はこういう局面を迎えやすいように思う。やっぱり僕らは恋を知らない。性欲も社会的闘争も排除された恋愛を僕らはうまく想定できない。

考えうる一つのヒントは『闘争領域の拡大』でウェルベックが言及した愛に関する考察だ。曰く僕ら世代はある相手の唯一性というものをあまり容易に信じることができなくなってしまっている。キリスト教的な一夫一妻の教義的制約や家族ぐるみの婚姻や見合い婚のシステムがないから、僕らの恋愛観はほとんど「売女的」になっているのだという。そこでは性的な魅力や資産といった指標に基づいた性的パートナー交換の市場が存在し、もちろんそのために階級システムが存在する。ある男女は多くの人間と交渉を持つが、或る男女は全く持たないということが起こる。そこではあらゆるペアが交換可能であり、組相手に唯一性は存在しない。こうなると、いわゆる愛というのは考えられなくなってくる(まさに愛がこの社会には不足しているのに)。

なるほど理屈はもっともらしい。さもありなん。しかし夜守コウはナズナに対して唯一性を認めているように思う。他の吸血鬼たちの誘惑にコウは全く関心を示さない。では愛の条件は満たすのではないか。であれば彼は吸血鬼になって叱るべきである……しかしそうはなっていない。

恐らくだが、ここには唯一性を付与する相手(この場合ナズナ)に対する関心の程度が問題になるのではなかろうか。コウのリアクションは、他の吸血鬼には関心がないが、ナズナはそれよりいい、というような比較的消極的なものにも見える(もちろん口調はもう少し説得的になっているだろうが)。であれば今後のコウ課題はナズナに対して人一倍関心を持つことということになるのだろう。同様にまたここまでよくわからなかった恋愛の要件も(少なくとも1つ)わかったことになる。他人に特別の関心を示すこと。

 

しかしどうだろう。これは友情と一体何が違うのだろうか。

 

夜中に考えすぎるとドツボにはまる。こういうのは程々にしておくのが良かろう。読者もなにか考えついたらコメントを残していってくれると嬉しい。理屈っぽいことに限らず、個人的な体験でも何でも良い。面白がって読む。

一応読者にだけ喋らせるのはフェアじゃないと思うのでたまたま思い出した昔の話をしておこう。

高校生の頃好きな女の子がいた。というとあまりにもわかりやすいが、自分はその人と付き合いたいとか性的な関係を持ちたちとか性的闘争における社会的優位を獲得したいとか感じたわけではない。どちらかというと友だちになりたかった(今でいうと推しに近いのかもしれない)。その人はとにかく当時の自分にとって多くの謎を持っていた。とにかく楽しそうに話すし比較的誰とでも話すが、自己開示をすることがあまりない。そういう話をしたがらないと言うよりはとにかく他人に話させるのが恐ろしく上手かったのだと思う。何度か話すことがあったものの彼女のことは殆どわからなかった。それに開示される情報にちょっと驚かされたりする。全くそんな素振りを見せないのだがなにやらちゃんとした文化資本があったらしい。学校ではおくびにも出さないので最初話を聞いた時はゾッとしたのを覚えている。もっと早く仲良くなっていたら、自分も多少の教養が身についたんじゃなかろうかと思ったりするが無益な想像だ。そうなることは多分なかっただろう。自分が自分に自信がなかったことや彼女が今まで全く交流したことのないタイプの人だったこともあるが、性別の壁みたいなものはあったような気がする。それは単に思春期男子高校生だった僕が意識しすぎただけのことかもしれないが、どういうスタンスどういう距離感で交流すればいいのか全くわからなかった。ちょっと踏み外せば恋愛の文脈に回収されてキモくなってしまうような気がした。結局海遊館の水槽ガラス程度の分厚い壁があったままだったと思う。高校を卒業して全く疎遠になった。当たり障りのない連絡を交わしたこともあるが、それきりである。読者はこれを見て僕が望んでいたのがコイと思うだろうか友情と思うだろうか。その境界はあらゆる意味であまりに曖昧だと思う。

 

 

2021/04/15

最近もう感情が動かない。嬉しいとか楽しいとかいう気持ちが真っ直ぐに感じられなくなって、クリーム色の膜が張られたように意味が一枚、「これはまやかしに過ぎない」と注釈が付け加えられる。

ショーペンハウアーパスカルが決定的な仕方で世界の見えを変えてしまった。僕には神を信仰して死後救われるか、意志の否定へたどり着いて涅槃を迎えるか、苦しいまやかしの娯楽でごまかされた生活かしかないと思われ、これは決定的な事柄になってしまった。もう何年もこれら以外のオプションを考えられないでいる。

僕はその決定的な影響力と単純さのためにショーペンハウアーパスカルからできるだけ逃れて別の哲学を目指して勉強していたが、逃げれば逃げるほどその決定力が絶大だったことが実感された。仕方がないので先月パスカルを読み返したりしたが、その時に誤読と誤解がはっきりして、多少救われたりなどした(同時に行き詰まりも感じた)。自分はパスカル実存主義的側面を強く意識しすぎたせいで、パスカルの言う気晴らし(娯楽)が死への実存という真実を見えなくする徹底的に悪いものだというように読んでいた。パスカルは実存の真実から神の救済の賭けへと話を持っていきたいので、もちろん気晴らしから目覚めて実存に気づくことを推奨しはするのだが、同時に気晴らしを取り上げられた人間が駄目になってしまうことも確かに認めている。自分はここを見逃していたのでどんな娯楽もどんな生活も右左なく罪悪感を伴うものと感じられていた。パスカルの提示する信仰はちょうどジェイムズの『宗教的経験の諸相』でいう二度生まれの改心に該当する。ただ確かにパスカルは絶望状態から信仰によって救済されるルートをメインに描くが、ジェイムズの言う一度生まれの救済ルートを否定するような立場でもないように思われる。パスカルは実存に目覚めて絶望することを承知しているし、気晴らしによって人が救われてあることや王であることの素晴らしさも同時に理解しているように見えるからだ。

パスカルに娯楽肯定の余地はあるかもしれない。ニーチェは研究していないので安易なことは言えないが、ショーペンハウアーにも意志の肯定というルートが確かに存在する(と聞いているし想定しうる)。ではそのように生きればよいではないか。というわけにいかない。パスカルは気晴らしを巧みにも、子供が自分の顔に泥を塗って自分で怖がったり面白がったりするようなものだと言った。気晴らしには一種の自己暗示や忘却が必要になる。実際には自明の事実しか存在せずまた「死へ一歩ずつ近づいている」という意味すらあるのにそれらを忘れて、初めてある娯楽を楽しむことが出来る。ルーレットに存在するのは確率と色面の変化。カード遊びにあるのは操作と相応のカードの移動。たったそれだけの事実になにか大事なことがあるかのように一喜一憂する。遊ぶときにはこの事実を忘れなければならない。しかし自分にはそれが出来ない。虚構の力を感じられない。ただつまらない事実だけがある。一歩一歩死につつある。ただ何も私は意味を成さないまま。むしろ疎まれ嫌われリソースを無駄にすり減らして肥やしにもならないゴミのまま。誰かのストレスのはけ口にさえされないまま。ただそうした事実に対する基底音のような悲しみと苦痛がある。

ではなぜパスカルに習って信仰しないのか。自分は二度生まれになれないからだ。神を信仰できないからだ。自分はあらゆる気晴らしがまやかしだと知ってしまっているから、神さえもそうであると、救われることを信じた賭けも気晴らしの一つだと思えてくる。思えたものはどうしようもない。

涅槃はどうか。逆に問うがそれまでの苦痛をどうしろというのか。意志の否定は自殺ではない。自殺には意志が働くから意志の肯定を含んでいて、意志の否定ではない。結局カームな自然死が意志の否定ということになる。生に執着しなくなること。しかし衝動志向性がある以上、自律的な欲求を完全になくすことは簡単ではないだろう。まして実家ぐらしでは無理である。一人暮らしなら、静かに眠り続ければ、いつか衰弱死出来るかもしれないが、実家でそういうわけに行かない。

ただいまもう、こうしたことばかり頭をよぎって、夜になるととてもつらいので非常に死にたくなる。また日中は非常に疲れている。そしてまた異常に寝る。自分は今飛び降りが痛そうで怖いということと夜になるとどうしても眠くなるということによってなんとか生きている。だが、何が出来るでも何を出来るでもない、また何もしたくないが何も出来ないことは恥ずかしく駄目なことなのだと思えて辛い、そういう毎日である。こんなものを生きているなどとは呼びたくない。

これは筆者にも読者にも明らかだが、ここまでの近況にはいくつかの固定観念が含まれている。それも「意志に意志せよという」矛盾を含んだタイプの観念、いわゆる強迫観念である。何事か役に立たねばならないという脅迫。何事か成し遂げねばならないという脅迫。そしてまたこれらは全く自前のものではないと感じている(※1)。

惨めなことに、あまりにも状態がひどいので親に心配されて説教などされたのだが、そこで言われたのは主に他人からの影響をもっと受けるべきだ、少なくともその機会を持つべきだということだった。これに対する自分の反応は苦痛で、どうも自分は今自閉傾向がとてつもなく高くなっており、誰とも会いたくないし、誰にも何も言われたくないと思っていることがはっきりした。理由は不明だが他人の言葉に過敏に反応して想像以上に、不必要に傷ついてしまう状態が長く続いている。あまりこういう状態で無理に他人にあっても良くないと思うので、出来る限り説教は真に受けず引きこもらせていただこうと思うのだが、確かに新たな影響を受けるという局面が全然なかったのは事実だ。価値観が外から変わるような、上述のオプションに縛られない価値観にさらされるような経験をするべきなのかもしれない。

今日はネットで人のインタビューなどを漁りながら、そのようなことを考え、できるだけ別の価値体系を目指すよう心がけた。今のところ成果は五分である。妥協しうる生活態度のオプションは見出し得たが、しかし実行にあたって上述のオプション体系が頭をよぎり続けることを避けられないような気もしている。結局、自分で塗った泥を泥と忘れて、鏡を鏡と忘れて鏡を見ない限り何事も面白がれはしないのだと思う。そして自分はうまく忘れることが到底できそうにない。

せめて誰か共に苦しんでほしい。

※1 ここにはショーペンハウアーの他者論に関して拡張した議論を持ち込む余地があると思っている。他人から眼差されるという視点が、少なくとも『意志と表象としての世界』の中ではショーペンハウアーには欠けていて、これはショーペンハウアーにべき論が事実上存在しないこととパラレルだと思われる。

2021/03/29_自己満足不全とトラウマ

 

  

お久しぶりです。しばらく潰れていました。今も体調がいいとは言えません。とにかく悪い想像をしたり体に力が入らなかったり身に覚えのない筋肉痛が治らないとか喉の奥に口内炎ができてるとか色々あります。

人間の状態を悪くするものには一般的に精神的なものと身体的なものがあるわけですが、とにかく私は起きて活動することができないので(運動とかできないので)精神的な要件から解決したいなと、色々と自己解明の努力をしていました。

最近わかったことなのですが、私は自己満足ができません。自分一人で何かを感じるという機構が全然働いていないらしく、何かに対して喜ぶとか悲しむとか怒るとかそういうことが(少なくとも今)全然できていません。色々な理由はあるような気がします。例えば怒りに関しては抑制がかかっています。ものにしろ人にしろあたってはいけないと強く思い込んでいるので、攻撃性はほとんど自分に向けられてしまいます。結果怒りの感情は対外的には表出することがなく、ただ私がストレスを得るわけです。あるいはもしかすると、喜びや悲しみに関しても対外的な規範意識超自我)の働きで何らか抑制されているかもしれません。

いずれにせよ自分は自己満足の機能不全を起こしています。このことと相関的に起こっている事態は、評価基準の外在化です。自分で評価する基準が存在しないので、客観的に評価されたり利用価値があることができないと自分を攻めてしまいます。評価基準が存在しない他者で、しかも(多分)過剰適応を併発しているので、要求は高めです。例えば、生産性がなければならない経済性がなければならないコストベネフィットよくコンテンツを大量生産すべきだ誰かが利用できなければいけないコンテンツはいまどき誰にでも作れる手と目が動くのだから絵も文章も映像も音楽も理念的には全てのメディアで制作できて然るべきだ当然相応のインプットも無ければならないしかし最低限で最大の効果が出せなければ駄目だ等々。頭の中では存在しない他者が毎日こういう要求を掲げるわけなんですが、実際には達成できないので毎日ストレスと失望を得ます。こういうことの繰り返しでここしばらくの間だんだんダメ人間になっていったようです。最近わかりました。

まともな文章がかけません。あまり本も読めないようになっています。最近文体を感じられません。小説も駄目です。アニメを見る時顔面が死んでいます。音楽を聞く時耳が痛くなります。ゲームに触れられません。

以上近況報告です。

以下更に進んで現状こうなっていることの理由を開示したく思います。

これは最近聞いた話なのですが、自己満足の契機には自分の可能性を開示しきってその先で否応ない結論にぶつかること現実性に直面することが含まれるそうです。たしかにもっともらしいと思うので、ひとまずこれを受け入れます。そのうえで、なぜ私が自己満足できないのか、自己満足の契機が達成できないのか考えてみたいと思います。

まず現実への恐怖です。何も成し遂げないまま終わること、中途半端に終わることは怖いです。それから死ぬことの恐怖です。すべての可能性を完全に開示するために死ぬのではないか、そして多分それまでの道のりは痛くて苦しいだろうなという恐怖があります。

後者の恐怖はトラウマのせいです。小学生から中学生に上がるしばらくの間ちょっと引くほど勉強したことがあって、中学生の時に一度倒れて気がついたら母親の車で運ばれていたことがあります。あれ以来努力しても何のいいこともないしとにかく長い間辛くて苦しいだけ、最後には死に近づく、という刷り込みが離れません。怖いよなあ。

前者の恐怖は多分祖父からの刷り込みですかね。あまりそう結論づけたくはないですが、合うたび必ずおまえは偉くなると言われるのでなれなかったらどうしようという恐怖でいっぱいです。今のところ偉くなりそうな要素ないですし、偉くなってどうすんねん思いますしね。怖いです。

以下では恐怖という観点から絶望状態に入るまでの過程も追ってみます。

他人が怖いです。他人の評価に言い返せないので、他人の声が全部怖いです。相手にその意図がなくとも残響が繰り返し響いて肌が傷だらけになります。存在しない声と重なって誰ともわからない人からの非難の声が繰り返し聞こえます。正気ではないです。けど他にどうなりようもないです。

他人の声が怖いので、自己防衛のためにも客観的に文句の言われない状態になりたいのですが、過剰適応があるのでその客観性に絶対たどり着きません。大学に入った頃はある時期まで多少頑張りましたが、いろんな用事を押し付けられたりしたこともあってただ忙しい割には何の成果も得られない日が続いてました。いや成果はあったのかもしれませんが、成果とは思えませんでした。そういう日が続いてとにかく毎日しんどいし、息が浅い。起きている間ずっと溺れながら必死に泳いだ水泳の時間みたいでした。結果として学校を休みがちになって単位はとってるけどほぼ不登校みたいになりました。いろんな課外活動を辞めました。その頃は授業とか何も面白いと思えなくてとにかく辛かったです。気を紛らわすために大量にアニメを見ていた気がします。正直あれはどういう気持だったのか今ではよくわかりません。少なくとも授業よりはアニメのほうがおもろいなとは思っていた気がします。

そのままアニメとか批評とか面白がるマンになって成長すればよかったんですが、何も面白くないマンになって絶望状態に入りました。

現状の成立過程を踏まえると、評価基準の外在化→自己満足の消失という順番のようです。自己満足できなくなるトリガーは前々からあったようですし、内在的なモチベーションをあまり感じられないのは割と前からなので、一概にどちらが先とも言えないかもしれないです。それを踏まえると外在化と自己満足不全は相関構造としてサイクルを断ち切れるよう考えるべきかもしれません。

対策を考えたいのですが、正直どうするのがいいかわかりません。

どう考えてもある種の強迫観念をどうにかしないとどうしようもない気がするのですが、これを取り除いてしまうと感情がなくなっているので行動原理が存在しなくなってしまいます。気がかりなのは、いま体中炎症のような状態で何もしていなくても辛いので、何もすることがなくてその状態だと安易に飛び降りてしまわないか心配です。しんど。

まあでもリスク取って強迫観念除去するのも手です。ただ、強迫観念って認知行動療法で取り除けるんでしょうか。ちょっと調べようかな。

他の解決策があるとすればトラウマを解消して強迫観念ドリブンに乗ることでしょうか。これに関しては自分の心理状態が希求する状態に一番近いわけですが、トラウマの解消の仕方がわからないし、強迫観念ドリブン毎日躁状態とか出来る気がしないしできたらすぐ死ぬんじゃなかろうか。怪しいです。まずはトラウマの解消法から考えることですかね。これも一種の強迫観念として取り扱うのかしら。

まずは認知行動療法(暴露療法)に関する外延情報を仕入れるところからはじめてちょっとづつ対処を考えます。

おしまい。

 

2021/03/10_症状

ひどい頭痛がして寝床で臥せっていた。
頭痛薬も効かない。ただひたすら水を飲んで、トイレに行って、他には何も出来ず。今日は殆どそうして過ごした。

少しマシになってTwitterを観ていた。寝床でも見れる。
うちの大学に新入生たちがやってくる。学内者やOBがソワソワする。ちょっとだけタイムラインがざわつく感じが楽しい。アクティブユーザーが増えて、投稿へのリアクションがいつもより早かったりする。
オンライン授業、オンライン読書会で長らく失われていた同時性の恢復。例えば中途半端に3D化したポケモンxyよりも、ドットだったBWやDPtのほうが「リアル」だったのと同じで、中途半端に音声や映像情報を付加したビデオ通話よりも、文字情報だけがリアルタイムにやり取りされるSNSのほうがよっぽど「リアル」だったりする。そういうのがちょっと可笑しい。

小学生の頃、自分はほぼ毎日ひどい頭痛がしていた。偏頭痛持ちなんてレベルじゃない。頭が痛くない日は、年に数回あるかないか。折る指の数を忘れてしまうほど、そういう日は稀だった。バファリンが、ロキソニンが、カロナールが効かなくなる頭痛。代わりに自分は痛みに慣れる。頭がいたいのがデフォルトになる。
こうなると、いつもの頭の痛さなのか、それともそれ以上の痛さなのか、そういう区別が出てくるのが面白い。いつも頭が痛くて、ときどきめちゃくちゃ痛い日がある。めちゃくちゃ痛いときだけ頭痛薬を飲むようにした。

久しぶりの「しっかりした」頭痛を噛み締めながら、記憶を掘り返す。
意味なくスクロールしていたスマホを、枕の傍らに置く。そういえば、自分が1回生、2回生の間は寝る前に何事か思いついてツイートするのが常だったなと思い出す。睡眠の質が悪くなるからと、スマホの代わりに小さなメモを置くようにしたことも更に思い出す。
当時は頭の中が言葉でいっぱいだった。常に何かを考えて、常に何かを思い出す。書き残すべき事柄があまりに多すぎて、ノートもメモもツイートも、もはや自分で管理できないほど膨大になった。
そうして増やした詩篇のすべてが役に立つわけではないけれど、後から読み返したり思い返したりして「大事だったな」と思うことはある。けれどこれは役に立つとか、そういうのではないと思う。

大学生になったばかりの頃のメモ魔と、小学生の頃の慢性的な頭痛は似ている。どちらも抗うことが出来ず、否応なく生活のあり方を変えてしまったという点で2つは酷似する。どちらも等しく、症状と呼んで差し支えない。

症状は一般に怪我や病気の状態を指す言葉だ。そして殆どの場合それは治療を目的とした医学の文脈で語られ、その限りで怪我とは治すべき怪我であり、病気とは治すべき病気のことを指示し、同様に症状も治すべきものを指し示す。しかし、自分がここで言及する症状という術語には治療すべきという文脈灸は存在しない。つまり、単に本人の意図とは無関係に生活や行動の有り様を変化させてしまうようなある種の状態のことを、ここでは症状と呼ぶ。キーポイントは、治すべきかどうかには関与しないということだ。

普通、症状は全て治すべきである。今回の独特の意味での症状の場合に関しても、そのように言うことは出来るだろう。というのも、一般に環境というものは普通の生活を続けるのに適したデザインをしている。症状はそうした環境と相容れない行動様式・生活様式を許容するのだから、生きづらくなるのは自明と言っていいだろう。
しかし、この独特の意味での症状に、自分が悩まされたのは確かなのだが、通常の生活とは別の様式・習慣に浴する体験というのはそれ自体貴重なばかりでなく、自分の生活を相対化・客観化し、それを面白がったり自発的に変容させたりすることができるきっかけになる。そうした意味で自分は症状から何度も恩恵を受けた。

とはいえ、辛いものは辛いものだ。毎日頭が痛いとか、頭の中で言葉が渦巻いて止まらないとか(おもろ)、頭痛がひどくて寝床に臥したまま寝付けないとか、(客観的に観てスラップスティックであれど)辛いことには変わりない。症状は治療すべきだ。しかし普通の生活ではない、別の仕方へ。

2021/02/26_フィクションとして生きる

最近また小説を書きました。短編です。

***

小説を書くということがどういうことなのか、僕はまだよくわかってない。

小説を書き始めたのは去年だ。時間があるのでやったことのない創作をしてみよう、ぐらいの気持ちで始めた。

たとえば高校生から小説を書いている人とか、大学生とか社会人を経て文芸に関する吸収が閾値を超えてバーっと書き出す人とか、そういう人たちと僕とは違う。ぜんぜん違う。彼らが書かずにはいられなくて書いている人だとしたら、僕は書くものもないのに書きたいと思ってゆっくり試行錯誤してる人だ。小説で表現したいことは(今のところ)ないが、小説は作ってみたい。不純だと言われるかもしれないが嘘をつくよりは立派だと思う。それに多少は勉強してみようという誠実さもある。(少し前から最近まで伊藤計劃を勉強してたりするのもそういう事。)

僕は小説という媒体がよくわからない。小説という思考法がわかってない。何がどうしたら物語を語りだしたり、何万文字もシーンを描写できるのだろうか。正直さっぱりだ。けど別にそれに焦りは感じない。

僕は小説家を目指しているわけではないし、得意だった自負もない。背負ってるものがなにもないから、恐ろしく気楽にやらせてもらっている。

そういう気楽な実践の中で、小説という存在のことがわかってくると良いなと思っている。

そんなこんなで最後に書いたのが上の短編。一応最新話の「小説家になろう」ということになる。多分、ナチュラルボーン物書きは自作紹介とか自作解釈とかをやりたがらないと思うし、やっちゃいけない気さえするのだけど、僕は運良く(運悪く?)そういう文脈とはハズレているので、ちょっと自己解体をしてみようと思う。(まえにも似たようなことやったな。

***

小説家になろう」は、狂った男に銃を突きつけられた少女が記録小説を書かされる話だ。高高度核爆発によるEMP(電磁パルス)によって街中の電子機器が故障し、街中大混乱。あげく情動の生理機能に作用する催涙弾が大量投下され、男は激しい希死念慮に襲われる。

狂った男は、人生の最後に生きた証を残すため、銃で少女を脅迫して手記を残させる。EMP(と思われる、実際のところはわからない)のせいでカメラやビデオなどの電子的記録は不可能。催涙弾の影響で痙攣する手では手記は書けない。初対面の少女を脅迫する他なかったのだ。(多分)

で、これ何の話?

……ということだが、今回はここでちょっといつもの日記に戻ってくる。別に解体を放棄したわけではない。多少実存的な感覚を文脈として導入しないと「よくわからん」以外のなんの感想もないのは当たり前の駄作なのだ。

***

フィクションとして生きたい。

資本主義とか種の保存とか、そういう大きい物語の文脈をガン無視してフィクションとして生きたい。

大きな物語消えてなどいない。むしろ大きすぎてほとんどの人が見えなくなったり忘れたりしているだけだ。誰もが購買し、誰もが交配する。ここで交配はヘテロの生殖だけでを意味するのではない。もっと広義に自分という種を保存するためのあらゆる複製とそのための物質的な交雑を意味する。

誰もが購買する。いくら引きこもりと言えど食ったり風呂入ったり電気つけたりすれば金がかかる。インドア趣味は金がかからないような気がするが、ゲームは一本5千円前後するし、ハードは2万前後、アニメのサブスクは年間3千円前後で済むが、グッズを集め始めるときりがない。なんならオタクは昨今の消費文化を牽引する存在でもある。(これとか。もっと良い論文あると思うけど。)山にこもって自給自足でもするのでない限り、資本活動なしに生きていくことは出来ない。娯楽を享受するならなおさらだ。

誰もが交配する。たいがいが性欲があるし、性欲がなくとも自己保存欲求のない人間というのはそう居ないだろう。刃物を突きつけられて怖がらずにはいられない、という極限状態の話より以上に、人間何もせずにはいられず、何も残さずにはいられないものだと思う。(伊藤計劃がそうだった。最近彼のブログや小説など読んでいたので尚更そう思うのかもしれん。)人は孤独にも虚無にも耐えられない。なにかせずにはいられず、なにかするなら誰かと一緒でいたいと思う。誰かが記憶して伝えてくれるのでなければ、これからする何かが永遠に(語り継がれるものに)なることは絶対にないからだ。少なくともそうした可能性に開かれたものが残せないと、日々生み出せないと不安になってしまう。(自粛生活もあって、これは痛感する)

購買と交配。そのどちらも逃れられない。私たちが社会にある以上、私たちが有限の命であるところの人間である以上。

けれどこんな嫌な閉塞感、今までずっと味わってきただろうか。

僕はそうではなかった。少なくとも高校生の間は、お小遣いとHRと友達に守られて、なんの憂慮も切迫もなしに自由な放課後を過ごした。それこそ青春小説や4コマ漫画みたいな、あけすけで無軌道で有無を言わさぬ自由。

購買と交雑の文脈をガン無視してフィクションとして生きたい。フィクションのように自由に生きたい。

***

小説家になろう」はそんな自由を夢見ないフィクションだ。少女が4コマ漫画みたいな放課後を生きることはないだろう。情報は混乱している。街の殆どが甚大な被害を被った。そしておそらく、もし復興があるとすれば、大量の資金投入による「人道的援助」だけだ。ここでもまだ資本主義は生きている。あらゆる労働が、あらゆる道徳的振る舞いが、計量的に換金可能な世界に、未だどっぷりと浸かっている。少女が生き続けるなら彼女はそうした世界と対面することになる。何も持たない彼女はおそらく時間と存在を搾取されることになってしまうだろう。購買は続く。

それに少女はいずれにせよ健全に生きられるかどうかもわからない。彼女の体=資本は、復興しうる世界で、換金されるかもしれない。しかし復興しない(資本主義システムが崩壊して交換が成り立たない)世界になっても、彼女の体は、交雑のための、資本で有り続ける。拳銃を突きつけた男は少女を直接犯したりはしなかったが、今後そういう目に遭わないとも限らない。それにそもそも、拳銃の男は少女を自己保存の道具として(小説を書かせるというかたちで)使用したのだ。そういう意味では彼女はすでに不健全に取り扱われてしまった。交配は続く。

もっと絶望的なのは、彼女は書かされたことによって自らも書く主体へと変化してしまったということだ。不可逆の変化。交雑を必要としない無垢から、交雑を要求する息苦しい主体への変化。

小説家になろう」において小説家になることは、自らを自己保存の絶え間ない欲求に駆られる書き手に不可逆的に作り変えてしまうことを意味する。

誰もが交配する。そして荒廃する。そのことに抗うことは出来ない。

これはまさに男の述懐に似ている。

「けど、確かなのは、何か残さずには居られないってことだ。自分の爪痕とか、そういうものを。俺たちは、人間は、肉体は永遠には生きられない。だから何か永遠なものがいるんだ。それがもし、もう使い古された話をなぞることになっても、他人の永遠に奉仕する結果になってもだ。そういう性に俺は忠実に生きる。小さいときからそうだった。それが俺だ」

小説家になろう」はそういう話だ。

あんまり風呂焚きの待ち時間に読むものではないかもしれない。

***

以上が一応の自己解体、自作小説の自作解釈だ。

自分で小説を書いておいて、自分で批評するという奇妙なことをやってみた。やってる人間としては楽しい。

本稿は読者諸兄のいい暇つぶしになっただろうか。そうか良かった。

これで終わってもキリは良いのだが……しかしどうだろう。解釈が一意な小説というのは面白みにかけるのではないか。いくつか自己解体を解体して意味の氾濫を起こしてみよう。

どんな駄文でも、解釈の余地があればこれだけ遊べる(し読者も同じように遊ぶことが出来る)ということが示せれば嬉しい。

***

まず購買についてだが、男の言及した噂が本当なら資本主義社会は解体するかもしれない。そうじゃないかもしれない。

ひどい噂ばかりだ。色んな国でここと同じ有様だってのがみんなの話だ。世界中被爆大国だってこと。そんな世界でどんな人類が生き残るって言うんだろうな。

もし仮にどんな人類も生き残らず、世界が廃墟となれば、それこそ『少女終末旅行』のように購買とは無縁の探索と収集の世界が訪れるかもしれない。

ただもし仮に世界中被爆したとしても、技術があらゆる放射性被害から人間を守れるようになるかもしれない。そうなった場合は『ハーモニー』みたいな最悪の「健康」社会になるかもしれない。あるいはもっと中途半端に『電気羊』みたいな消費社会になるかもしれない。この場合、購買は続く。

個人的には『少女終末旅行』みたいな収集と探索の世界で、それこそチトとユーリみたいにのほほんと生きてくれたら(生きられたら)いいのにと思うのだが。そううまくは行かないかもしれない。

次に男の行動について

これは記録だ。ビデオカメラとか写真とか日記とか、そういうのと同じように、俺はこの女を脅して記録を残す。もし読者がいるなら、これは異常なことだと思うだろうか。あるいは理解してくれるだろうか。いまここは、ある時代や立場からすれば異常なことが普通になっている。いま大事なことは本質的なことだけで、つまり、俺が女を、しかも子供を拳銃で脅して何かを書かせたとしても、これは記録なのだということだけが重要で意味があるようなところに、いまいる。
これまでの人生で体験したことのない強烈な希死念慮に襲われてる。催涙弾が内蔵にききすぎたんだな。悪い方に。まあ、こいつを催涙弾と呼んでいいかどうかもわからんが。とにかくそのうち俺は死ぬ。内臓の暴走についていけない。死ぬ。今すぐ死にそうだ。かろうじて、この少女に拳銃を向けることで奇妙な均衡が保たれてる。理性が、少女を撃たないよう歯止めをかける。死への欲動は、拳銃が少女に向けている。

上記引用2箇所で、男が少女を脅迫して手記を残させた経緯が伺える。ビデオでも写真でもなく手記なのはEMP(?)のせいだ。そして少女を脅しているのはおそらく拳銃を彼女に向けることでしか希死念慮を緩和できないからだ。つまりそれ以外の状態になると、例えば自分で鉛筆を持って手記を書こうとすると、すぐさま自殺してしまうのだろう(そのぐらいの希死念慮)。

しかし奇妙なことがある。

男の人が、適当な瓦礫を積み上げて机を作ってくれました。

という少女の描写だ。これが本当なら、両手はふさがっている。男は拳銃を持っていないことになるのではないか。つまり少女に拳銃を向けてはいないが、自殺しなかったタイミングが存在する(しかも手記を書かせる意図があるので手記を残す動機となった希死念慮は存在する)ということだ。

ここから先の解釈は小説の全貌を大きく変えてしまうかもしれない。

いくつか解釈があり得ると思う。

解釈1:

例えば少女が言及する男というのは実は二人いて、拳銃自殺したがっている男と、少女とも男とも完全に中立(かつ人物紹介描写に値しない)の謎の男の二人がいるというケースだ。

この小説、実は実際のEMPでは考えられないような電子機器の使用不可能状態になっており、私たちが想像する科学や軍事では小説の中で起こった出来事を正しく理解できない可能性がある。つまり、小説の中では現在(それもごく最近)の日付が使われているが、まったく別の科学の発展を果たした平行世界であることは想像に難くなく、であれば人間に奉仕するアンドロイドがいてもおかしくはないのだ。

要するに、拳銃の男と少女の他に、両者に完全に中立で描写するに値しない男性型アンドロイドが存在したかもしれないということだ。

(だからどうやねん。)

解釈2:

次に、ごくシンプルに、男は足を使って、瓦礫を蹴り上げるなどして机もどきを用意したという穏当な解釈もありえよう。この場合は動作に対して小説的には描写が不自然で不適切ということになるが、「小説家になろう」においては少女が描写したという事になっているから、むしろこれで正しいとも言えるだろう。

解釈3:

あるいはこんな解釈も可能だ。男がほとんどデタラメを吹いており、実際には少女を脅して手記を書かせるという強行に、論理的な理由は存在しないという解釈だ。男はこんな事を言っている。

「あんた死んだ彼女に似てるよ。きれいだ。俺がもっとガキだったら、拳銃突きつけて書かせたりセずに犯してたかもな」

拳銃を突きつけて少女を犯す。それがこの男の本来の目的だったのかもしれない。しかしなんらかの(死んだ彼女?なけなしのモラル?)理由でそうした目論見を取りやめて、別の行動に、拳銃を突きつけて小説を書かせるという奇妙な行動に移ったのかもしれない。

おそらくこれら解釈のうちでも解釈3はラディカルだが、比較的物語を矛盾なく納得の行く仕方で読めるかもしれない。

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探せば謎はまだあるだろうし、男がどこまで嘘をついていないか、どこまで正しい情報に基づいて言動しているかわからないのもあって、解釈の余地は多分にあるだろう。それに、小説を起点にしていろんな可能性に思いを馳せることが出来る。

僕は小説という媒体がよくわからない。小説という思考法がわかってない。

小説を書くということがどういうことなのか、僕はまだよくわかってない。

書き手としての僕は未熟ではあるが、どんな駄文であれ小説は小説であり、そうである以上ある一定の機能は果たしうるはずだ。そして、小説一般の読者として自分は多少、小説の機能に詳しいつもりでいる。

だからこうして自前の小説を使って、小説で遊んでみせた。

小説には場所性がある。それは僕らが読書をするときに、その場所の匂いや温度を感じるということでもあるが、それだけでなく、その場所を読んで知ることを通して、その場所以上のところに行けるということでもある。小説は無限の可読性に開かれている。だからこそ(読了がないと知って誤読を恐れ過ぎず進むなら)僕らは必ず自分たちの向かうべき場所へ行くことが出来る。それは自分らの実存であったり快楽であったり、自分たちの道=文脈を持ち込むことによって、小説が可読性を開くからだ。僕らは小説を通して、文字をくぐり抜けて、僕らの道の先を少しだけ見通したり出来るのだ。

そんな楽しみの一端を味わっていただけたら大満足である。

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僕らはフィクションとして生きよう。

あらゆる生活の可読性を自由にアレンジして。

大きな物語を捻じ曲げるほどに。

2021/02/23_名前のある部分

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こんばんわ。まずは近況報告のようなもの。

Twitterのフォローを0にしました。タイムラインがあまりにも煩雑で弱ったメンタルでは耐えられなかったから。フォローしていただいて、相互だと思ってくれてる方には申し訳ない。一応フォローの代替としてリスト機能を使ったり使わなかったりする。

ただ正直な話……

・俺が誰のツイートを見てようが見てまいが関係ないし
・鍵アカのくせにちゃんと見ろやとか意味わからんし
・もうTwitterやめたいよね

ただ僕はずるいので、自分のnoteは広告したいし、そのためにもフォロワーがいるTwitterはありがたいと思ってる。僕には広告力がないので、誰かが見て気に入って拡散してくれると、テキストも存在する価値があるから。

いま価値のこと意味って言いかけた。意味と価値って別物だと思うけど、価値のこと意味って言いがち。価値はなくても意味はあるでしょ。価値がないからって意味がないとか(言葉の上だけでも)言ってしまって、無いのと同じように扱ってしまうのはメンタルヘルス的にもよくないよな……などと時々思う。時々なので、よく価値のこと意味って言ってしまう。

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今回のタイトルは「名前のある部分」なので、ちょと強引に話を戻す。

伊藤計劃の『ハーモニー』を先々週あたりに読んで、先週、図書館で『伊藤計劃記録』を借りてきた。『ハーモニー』みたいなSFがどういう思考回路、どういう遍歴のあとで書かれるのかちょっと気になって。

結果は上々。最近MGS、MGS2も履修して伊藤計劃が見えてきた。多分次に履修すべきは『ディファレンス・エンジン』と『ニューロマンサー』。ここまで見ればだいぶ見えてくるんじゃなかろうか。

しかし2008年の『SFが読みたい!』での円城塔とのインタビュー「装飾と構造で乗り切る終末」を読んでいて、伊藤計劃が見えてきても伊藤計劃にはなれないのだろうなと思わされた。タイトルにもある「装飾と構造」というのは円城塔伊藤計劃が文を構成するときのスタイルを表している。円城塔は構造をどんどん詰め込んで文を作る。伊藤計劃は装飾を詰め込んで文を作る。多分、多くの物書きにとって異常なのは一つあれば小説が組み上がるような構造をバンバン使ってしまう円城塔の方なのだろうが、物書き未満の自分が痛感したのは装飾を積み上げていくのがどれだけ難しいのかということだ。例えば、円城塔伊藤計劃のように書けないという話をしている時、こんな事を言っていた。

円城 僕の場合はディテールを細かくしようにも、たとえば銃だと、穴があいている筒で火薬を入れて火をつければよい、というくらいの認識しかなくて。
伊藤 すごくトポロジカルな感覚(笑)。

まさにこれ。銃と言われても素の自分ではあいまいな形状以上のものは想像しないし、そもそも銃が「撃鉄」とか「銃身」とか「名前のある部分」で出来上がっているということに気が付かない。(いまの)僕が小説を書くことになったとしたら多分「ここに銃があります」以上の文は書かない気がする。逆に言うと装飾で文を組み上げられる人は「名前のある部分」に対する感度が高いのかもしれない。少なくとも、知ってか知らずかそうした名前によってディテールを描き出す装飾が出来るようになっている。

変な話、伊藤計劃じゃないことのほうが普通ではないかと思う。普通の人は銃のパーツの名前なんか知らないし、電子レンジとかコップとか机のパーツをどう呼ぶかなんて考えたこともない。机は机コップはコップで、それ以上の名前は必要ないはずだ。だってそれで話は通じるし、最悪「あれ」って指を挿せばいい。だけど、じゃあどうして銃の部分に名前がつくんだろうか。

多分、「普通」じゃない人には必要だからだ。銃を取り扱う人、戦場に居たり、銃器の生産ラインに居たりする人には多分、こういう名前がないと不便なんだろう。知らないけど。

でもそう考えると小説家って変な仕事だ。自分が知ってなくても困らない「名前のある部分」をたくさん知っていることが当たり前になっている。それに読者も読者で、そんな名前普段は使わないし気が付かないのに、小説を読む間は「名前のある部分」に気づいている。そういう装飾がリアルな感じがする。

名前と他者、名前と読者。語りでも記述でもなんでもいいけれど、僕らはテキストを介してコミュニケーションする。すると必然的に名前を使う。名指す。それを通して同じものを見る。見ていることになっている。しかしまた、たとえば小説は名前の数が少ないとリアルな感じがしなくなったり、普通の会話で「重力加速度」とか「宇宙定数」とかが通じなかったりする。

よくわからない。

名前を呼べば、何でもうまくいくような気もするし、名前を読んでも何もうまく行かないような気もする。

そういう事を考えてまた眠れなくなったりする。

この話、通じてるといいんだけど。